フォト

田中真知の本&CD


  • 美しいをさがす旅にでよう (地球のカタチ)

  • Kodokunatori170pix_3

  • Omm2

  • Photo_4

  • Korean_version_2    「へんな毒すごい毒」   韓国語版

  • 転生―古代エジプトから甦った女考古学者

  • 21fc6g6ue9l

  • 494770230309mzzzzzzz

  • アフリカ旅物語 中南部編

  • へんな毒すごい毒 (知りたい★サイエンス)

最近のトラックバック

« コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス | トップページ | 小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』が楽しい! »

文化人類学者・阿部年晴先生のこと

文化人類学者の阿部年晴先生が亡くなった。自分にとって心から先生と呼べる人のひとりだった。訃報を受けてから、いろんなことを思い出していた。前にも書いたことがあるが、30年も前、たまたま手にした『アフリカ人の生活と伝統』という本にとても感銘を受けた。それはアフリカ人の精神世界をみずからのフィールド体験と重ね合わせて読み解くように書かれた本だった。その著者が阿部先生だった。埼玉大学の教授だった。


手紙を書いた。なにを書いたかはもう覚えていない。たぶん自分のアフリカへの思いのようなものを稚拙な文章でつづったのだと思う。それから数日後、先生から電話がかかってきた。びっくりした。先生に呼び出されて向かったのは北浦和の居酒屋だった。うちの近所だった。先生に相談をしに来られていた京大の院生の方もいっしょだった。スーダン南部で調査をされているという。ぼくがアフリカへ行きたいと書いていたので紹介してくださったのだ。


Img_0497


先生は酒がめっぽう強かった。しかも乱れない。でも、なによりうれしかったのは、先生が、20代半ばの未熟で、頭でっかちな若僧の話を、バカにしたり、頭ごなしに否定したりすることはいっさいせず、ていねいに聞いてくれたことだ。


それからまもなく長い旅に出た。1980年代の半ばだった。紹介してくださった研究者のスーダン南部のフィールドを訪ねるところから旅ははじまった。出発の日、先生は駅まできてくださり、「タナカ風アフリカを存分に見てこい」と声をかけてくださった。いまだに自分がアフリカにこだわりつづけているのは、あのときの先生の言葉が忘れられないからだ。


家がわりと近かったので、帰国してからも、先生とはときどきお会いした。会うと、かならず飲んだ。先生は酒に強かったが、その飲み方はもはや研究者の間でも伝説になっている。朝まで飲むのはあたりまえだった。しかし先生は、そこで終わらず日が昇っても飲みつづけ、仮眠をはさんで日が暮れるまで飲み、そのまま夜通し飲んでまた朝が来て、それでもまだ飲みつづけるというサイクルを、ときにはまる3日、あるいはそれ以上くりかえすという途方もないものだった。


ある夕方、近所の飲み屋から電話がかかってきた。行ってみたら先生は座敷の壁際にすわっていて「昨日からここで飲んでいるので、腰がもう直角だ」などとおっしゃる。そこでしばらく飲んだあと、夜中の北浦和を徘徊したが開いている店がなく、駅前の吉野家で飲んだ。当時の吉野家はビールは三本までだった。足りるはずがない。


そのあと、うちにお招きして、また飲みながら話をした。アフリカのフィールドでのエピソードですごく面白いのだが、そういうときは、こちらもかなり酔っている。だから、あとで思い出そうとしても、ほとんど思い出せないのが残念だった。明くる日「これからS女子大で講義だけど、かわりに授業をしてきてくれ」などとわけのわからないことをおっしゃるのをほっといて、ぼくは仕事に出かけた。帰ってきたら、ちゃんと食器が洗ってあった。


その頃、先生は薄い色のついた銀縁眼鏡をかけていて、一見その筋の人かと見紛う、こわもてな雰囲気だった。でも、先生の書くエッセイはすばらしかった。とくに講談社の「本」という冊子にのっていた「追想のアフリカ」というエッセイは本当によかった。それは20代で初めてアフリカを訪れたとき、西アフリカの港で立ち働く黒人たちを目の当たりにしたときの印象からはじまっていた。みずみずしい感性にあふれた、繊細で、奇跡のように美しいエッセイだった。


たしか80年代後半だったと思うが、アフリカについて、阿部先生と同じく文化人類学者の山口昌男さんと、作家の辻邦生さんが鼎談するという企画が、東京外大だったかで催された。辻邦生さんは学生の頃から私淑していた方で、ちょうどその頃朝日新聞でアフリカを舞台とした小説を書かれていた。その関係で、企画された公開シンポジウムだった。自分が好きだった辻さんと阿部先生がこうした形でつながることがうれしかった。辻さんと阿部先生はタイプはぜんぜんちがったけれど、二人ともひとを明るく励ます人だった。


先生は結婚式にも来てくださり、スピーチもしてくれた。けれども、ぼくがエジプトに移り住んでからは、ばたばたしているうちに疎遠になってしまった。


日本に帰国して10数年たってからインターネットで、先生が退官されてから地球ことば村というNPOの理事長をされていることを知り、そこにメールを書いた。すると、一週間くらいたって先生から電話があった。「阿部です、ひさしぶり」という声を聞いて、懐かしさで気が遠くなりそうだった。2年前(2014年)の秋だった。


20数年ぶりに再会を果たした先は居酒屋ではなかった。体調をくずされ、お酒をやめられたという。でも、せっかくだから最初だけビールで乾杯しようといわれた。それは一生のうちに何度かしかない、かけがえのない幸福な乾杯だった。


そのとき先生は自分が肝臓ガンであること、ずいぶん前に手術をして、もう10年以上入退院をくり返していて、いまだに生きているのを医者が不思議がっていると話してくれた。たしかにあれほど飲んでいたら肝臓をやられないほうがおかしい。先生は自分の症状や受けている治療法を事細かに話してくれる。どう聞いても相当深刻な状態なのはまちがいなかった。それでも口調は、どこか楽しげで、まるで自分のからだを観察するのを楽しんでいるかのようにすら聞こえた。


長いブランクがうそのように、話が弾んだ。60年代末から80年代のアフリカでのエピソードをいろいろ聞かせてくれた。それはひょっとしたら30年前にお互いに泥酔しながらうかがった話かもしれなかった。あのころはアフリカは牧歌的だったなあ、と先生はおっしゃった。危ないといわれていてもナイロビのリバーロードで朝までハシゴして飲んだり、ガーナのアクラで酔っぱらって歩いたりしていても大丈夫だったなあ、とおっしゃる。アフリカでも腰が直角になるほど飲んでいたのですね、というと、先生は笑った。


「空白の30年間」と先生はいった。それは肝臓をやられて酒が飲めなくなるまでの、酒の海を泳ぎつづけた年月のことだった。そんなに酒飲みというと、いかにも豪放磊落なタイプな気もするが、ぼくの印象はむしろ反対で、他人にやさしい気遣いのできる、とても繊細で、シャイな方だった。その照れくささをかくすために、酒を飲んでいたのかもしれない。あれほど飲んでいたにもかかわらず、先生は人望があり学部長や学長代行までつとめられていた。だが一方で、惜しげもなく酒につぎこんだ時間を、もっとフィールドワークや執筆にあてていたら、阿部先生しか書けない本や研究がもっとたくさん読むことができただろうにとも思う。


この再会から、ふたたび折にふれて先生を訪ねて、話をするようになった。ご自宅近くの喫茶店で会ったり、病院のロビーで会ったりした。先生に誘われて「世界ことば村」の活動にもかかわるようになった。その間にも入退院をなんどもくりかえされていたが、そんなときでも、これからこんな本が書きたいとか、こういう研究がしたいと遠大な計画を口にされた。けっして強がりではなく、本気でそういうことを考えていたのだと思う。すっかりやせていたし、体力も衰えているのは明らかなのに、先生が遠大な将来計画を、じつに自然に、楽しそうに語るのを聞いていると、こっちまで、きっとそうなるにちがいない気がしてくるのだった。


だから数日前に訃報を聞いたときは、それは再会したときから覚悟していたことであったにもかかわらず、とても唐突な気がした。あれ、先生、仕事がまだ終わっていないじゃないですかといいたくなった。


通夜の席で、初めて阿部先生と初めて会ったときに紹介された栗本英世さんに再会した。いまは大阪大学で人間科学部長をされている。「あの村はもうないんだよ」と栗本さんはいった。「あの村」とは1985年に栗本さんといっしょに訪れた、スーダン南部の彼のフィールドだったラフォンという村だった。この訪問のあと、村は再燃したスーダン南北内戦のあおりを受けて、90年代になって焼き払われてしまったという。精霊のすむ大きな岩山の裾に集落がひろがる美しい村だった。


Photo


ちなみに、その村をおとずれたあと、西部のダルフール地方へ足をのばし、山の中の小さな村で一ヵ月くらい過ごした。平和で、満ち足りた、かけがえのない日々だった。しかし、その後、ダルフールもまた長い紛争の舞台となり、山中の多くの村で殺戮や焼き討ちが行われ、いまだに入域は困難なままだ。あの平和な村が、どうなっているのか知るよしもない。


大切なものは人の思い出の中にしか残っていない。阿部先生が話してくださった、いろんなエピソードも阿部先生の思い出の中にしかない。だから、亡くなられるまでの2年間、ふたたび会って話をうかがえたのは、ほんとうに幸運だった。たくさん会うことはできなかったけれど、とても濃密な時間だった。先生に自分の本を読んでもらえたのもうれしかった。自分もまた先生になにか喜ばしい時間をあたえることができたと思いたい。


亡くなる20日前くらいに入院先の先生に「『アフリカ人の生活と伝統』を読みかえしています」とメールした。この本の中に、とても好きな一節がある。


・・・この伝承からある種の絶望を読みとることはできるけれども、打ちひしがれた湿っぽい無力感ではなく、むしろ勁さ(つよさ)のようなものをも感じることができるのではなかろうか。・・・現実に対する透徹した眼差しに由来する絶望は精神を受動的な閉塞状態に追いやることはない。悲劇的なものへの感受性は不屈の楽天性と背中合わせのものであり、より適切には、この両者を区別できないように統合した精神の在り方とも呼ぶべきものがそこにはある。これこそは、アフリカの諸民族の精神世界の基調低音として響き続けているものである」(「神と人間」)


今年の春くらいにお会いしたとき、「先生が昔書いた『追想のアフリカ』というエッセイがすごくよかった。あんなかんじでアフリカでの話を書いてほしいです」といったことがある。すると先生は、じつはそれは考えているんだよ、といった。「そうなんですか。ぜひ書いてください。すごく読みたいです。書くのがたいへんなら、インタビューでもいいですよ。直接会うのがたいへんならスカイプというのがあって、疲れない程度でちょっとずつでも話をするのはどうですか」と先生をたきつけた。でも、それは結局、夢になってしまったーー。


訃報を聞いてから、「追想のアフリカ」を読みかえしたくなり、押し入れの古い書類の中を探した。夜中まで探したが、どうしても見つからず、翌日もいろんなところを探しまわり、やっと見つけた。ほかではきっと読めないとおもうので、先生に許可はとっていないけれど、ここにあげる。(クリックで拡大)


Cci20161119_2_2


Cci20161119_3



« コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス | トップページ | 小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』が楽しい! »

コメント

阿部先生が亡くなられたのをこのブログで初めて知りました。
大学に入学した年に先生は埼玉大学に着任されていたわけで、翌年からの専門コースの際に授業を受けたりしました。ほとんど「実験室」と名付けられた部屋のテーブルで行われたような記憶があります。
最初の頃なのであまり多くはありませんでしたが、先生と酒席をともにするという経験もありました。飲んでいる途中でお金が無くなって、先生のご自宅まで取りに行くということもありました。
ロマンティストでもあった先生とは卒業後は交流もなく、そのままになっていて、風の便りで聞こえてくるのはお酒にまつわる武勇伝ばかりでした。
今回あらためて先生のお書きになった本を2冊ほど古書で注文しました。
もう40年も前の話です。
田中さんとこんな交流があったとは、不思議な気持ちにもなりました。

>natsunokiさま

コメントありがとうございます。
阿部先生と交流のあった方は酒をめぐる思い出には事欠かないですね。
それでもnatsunokiさまがおっしゃるように先生はロマンティストで、著者の中にもそれがあらわれているように感じます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス | トップページ | 小松義夫さんの新刊『人と出会う場所 世界の市場』が楽しい! »

新刊


  • たまたまザイール、またコンゴ       「たまたまザイール、またコンゴ」(偕成社)

twitter

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

別ブログ


  • 年刊化阻止! Photo    Lady Gaga「 Judas」解読

写真家・横谷宣のご紹介

無料ブログはココログ