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コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス

2016年5月21日にさいたまソニックシティで開催された「マインドフルネス精神療法研究」の第2回大会で「マインドフルネス 身体とことばから考える」と題して講演しました。以下はその採録。主宰者で、20年以上前からうつ病や不安障害の方たちへの支援を行っている大田健次郎先生の講座を一昨年から昨年にかけて受講した縁で、話をさせていただきました。いわゆる癒し系マインドフルネスの話ではないので、タイトルは「 コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス」としました。


ーーー

みなさん、こんにちは。田中と申します。私はあちこち旅をして本を書いたりしてきたのですが、とくにアフリカのような過酷といわれる場所にひかれてきたところがあります。たとえば、こんなところです。これはアフリカ中央部のコンゴの森の道です。
 

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一般に旅というと、計画を立てて、その計画に沿って動くものと思われているかもしれません。ツアーなどもそうですね。そういう旅では、旅がうまくいくかどうかは、なるべく多くのリスクを事前に予測して対処できるようにするかにかかっています。


もちろん、すべてが計画通りにいかないこともあります。飛行機が遅れたり、買いたかったお土産が買えなかったり、体調を崩したりということもあります。でも、そういう思いがけない、予想しなかった経験もまた旅の魅力でもあります。計画から少しずれたことが起きるくらいが、旅の楽しさになります。旅好きの人というのは、そういうハプニングもふくめて旅を楽しめるひとたちのことだと思います。つまり、ハプニングも「想定内」として楽しめる、ということです。


けれども、ここにお見せしたような旅だと、そういう適度なハプニングではすまないことが多い。ほぼ計画通りでハプニングが少し、というのではなく、ほとんどがハプニングかリスクか「想定外」という状態になることもしばしばです。もちろん、アフリカの旅がすべてそうというわけではありません。


たとえば、船がいつ来るかわからない。乗ってもいつ着くかわからない。出会うひとたちが敵か味方かわからない。いっていることがうそなのか、本当なのかわからない。市場で買い物をしても、相手のいっている値段が相場なのかどうかわからない。町を歩いていても、いつ襲われるかわからない。


 

想定内の世界に慣れていると、そういうところを旅していると、怖くなったり、不安になったり、いらいらしたりします。予測不能で、不確実で、状況がたえず変化する。次の瞬間になにが起きるかわからない。そういう場所だったりします。


そういう国というのは、たいてい政府や法がきちんと機能していません。その是非はさておき、そうした日常の中で生きることは旅行者だけではなく、そこに暮らす人たちにとってもたいへんです。そこは人間の作った観念や仕組みに依存できない環境です。国家や法の中にありながら、起きることの多くが想定外になってしまう。


はじめのうちは、なんとか旅をコントロールしようとして悪あがきします。いらいらしたり、腹を立てたり、でも結局コントロールできなくて、途方に暮れ、あきらめるしかなくなる。あきらめるといっても、状況は刻々と変化するので、ただただ現在起きている状況に対応しつづけるしかない。先のことは考えない、過ぎたことは悩まない。


ところが、そうやっていると、だんだん慣れてきます。慣れてくるというより、あきらめてしまう。自律性は失っていないのだけれど抵抗はやめる。すると、なぜかその状態を楽しめるようになるときがあります。楽しめるといっても、あいかわらず、いらいらするし、腹も立つ。恐かったりもする。でも、そのことにひっぱられすぎない。


あきらめてしまう、ゆるしてしまうことで、逆にゆとりが生まれ、冷静に対応できるようになることがあります。「こともある」だけで、もちろん、いつもそうなるとはかぎりません。ただ、「想定外」との向き合い方のモードが変わる。というか、変わらないとやってられない。だからといって、仏のように慈悲深くなるわけではなくて、やっぱりその都度、腹は立つし、けんかもするのですが。


このような話から始めたのは、今日お話ししたいのが、「想定内」と「想定外」ということについてだからです。この2つのちがいを、かんたんにまとめてみます。


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旅だけでなく、なにかを計画したり、行おうとする場合、一般的には、想定外をできるだけ想定内に収めようとします。料理をするにしても、どんなものができるのかわからない、というのではレストランは成り立ちません。


想定外を想定内に収める、というのは近代合理主義の考え方です。近代合理主義とは世界をコントロールできるものにつくりかえていくことです。偶然をなるべく減らし、予測可能なものに世界を変えていく。そして、それをコントロールできる能力を持つ者が評価される。それが近代社会です。


いいかえれば、近代化やそれを支えるテクノロジーとは、同じことをなんどでも再現できることを目指してきたわけです。機械がそうです。そういう考え方が人間の進歩や発展につながる、という立場です。では、そのコントロールされるべき「想定外」の主たる対象とはなんでしょうか? それは「自然」といっていいと思います。


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自然というと海や山や森、草木虫魚などがイメージされるかもしれません。それらももちろん自然です。また、私たち人間も、身体という自然をかかえています。では、自然の特質とはなにか。それは、つねに生起しては消滅するという流動性であったり、機械とは逆にくりかえしがなく、一回性であったり、ということだといえると思います。


そんなことはない、自然には四季のようなくりかえしがあるではないか、といわれるかもしれません。しかし、四季のめぐりとは人間があたえたモデルであって、実際には去年の夏と今年の夏と来年の夏は同じではありません。わたしたち人間もそうです。あなたという人間は宇宙創生以来、はじめて出現した存在で、あなたとまったく同じ人は、もう2度と生まれることはありません。そして、そのあなたも、きのうと今日と明日とではおびただしい細胞が死んだり生まれたりして、同じものではない。次の瞬間どうなるかを予測することはできません。自然とは本質的に「想定外」なのです。仏教でいう「無常」といっても、いいと思います。


さきほど述べたように、近代合理主義とは想定外をなるべく想定内に収めようという考え方です。しかし、現実の社会を見てもそうであるように、すべてをコントロールして想定内に収めることは不可能です。どんなにリスク管理をしても、すべてのリスクが避けられるわけではありません。なぜなら、世界というのは相互に関連する多数の要因が合わさって全体としてなんらかの振る舞いを見せているからです。


その振る舞いは部分をいくら観察してもわかりません。これは複雑系とよばれています。世界は偶然と突然でできています。コンゴのようなところの旅は、それを痛感させてくれます。どんなに想定外のことを想定内に収めようとしても、それがかなわない。あきらめるしかない。あるいは「ゆるす」しかない。


けれども、さきほど申し上げたように、近代の歴史とは、執拗なまでに想定外を想定内に収めようとしてきました。それは非西欧地域に対しては、「支配」「差別」「意図的な無視」(見て見ぬふり)、あるいはロマン主義的な「理想化」などというかたちをとりました。よく自然の中で暮らす人たちや、近代化していない暮らしをしている人たちに対して、「われわれが失ったなにかをもっている」とかいいますね。でも、そういう理想化もまた、想定外を想定内に押し込めようとするレッテル貼りにすぎません。リアルを見ようとしないという意味では差別と変わりません。


 

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じつは、こういうことは近代にはじまったわけではありません。人間は世界を認識するにはモデルを必要とします。けれども、ときとしてそのモデルを世界ととりちがえます。「世界」は「想定外」ですが、モデルは認識のために、それを「想定内」に収めたものです。だから、わかりやすいし、すんなりと理解できる。そのためモデルのほうが世界より優先される。すると、おかしなことが起こります。これを見てください。


 


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これは2世紀ローマの医学者のガレノスの人体解剖図です。いま見たら、実際の人体がこの図とまるでちがうことは、中学生でも知っています。けれども、ヨーロッパでは1000年以上ガレノスは権威をもっていました。実際に解剖してみれば、この図がまちがっていることはわかるのですが、中世をつうじて解剖はほとんど行われなかった。


まれに解剖実習が行われると、それがガレノスの図とちがうことがわかります。すると、先生は困ってしまった。苦しまぎれに先生は「この人体はまちがっている!」といったという逸話があります(笑)。このエピソードはつくり話っぽいですが、モデルという枠組みをうのみにして、現実を観察をしようとしなかったということです。


想定内にこだわりすぎると、こういうことが起こります。想定内という枠組みを、世界にあてはめて、その範囲で世界を見ようとする。それに合わないものは無理矢理想定内に押し込めようとする。あるいは見方に合わないものは見て見ぬふりをする。そうやっていると、見えないものが増えていく。そのうち、見えていないことにすら気づかなくなってしまう。そういうことは、私たちの身のまわりでもたくさん起こっています。


人はたいてい見たいものしか見ていません。見たいものとは、その人の世界観を補強、もしくは強化してくれるものです。世界観を突き崩そうとするもの、つまり想定外は、最初からスルーされたり、避けられたり、差別や排除の対象になります。けれども、先ほどのようなハードな旅の現実にさらされると、すべてが想定外になってしまう。


理解しようとか、理想化しようとか、なんとか自分を納得させようとする、そういう試みもことごとくくつがえされる。逃げ場もない。けれども、コントロール不能な想定外の現実は次々と押し寄せてくる。いらいらするし、不快きわまりない。でも、あきらめるしかない、ゆるすしかない。すると、そこにある種の解放感が生まれてくるというお話しをしました。じつは、このことが今日のテーマである「マインドフルネス」にも通じるように思います。ようやく、テーマにたどりつきました(笑)。


マインドフルネスとは、「今この瞬間に心(マインド)を集中させ、判断をしないでありのままを観察すること」といわれています。名称からすると、だいじなのは心(マインド)だと一般的には思われがちです。心によって身体をコントロール、たとえばリラックスさせたり、ゆるめたりする、というイメージをもたれるかもしれません。しかし、これは先ほどの話でいえば、逆に、身体という自然を「想定内」に収めようとする機械化もしくは疎外になってしまいます。


太極拳やヨーガなどで「リラックスしましょう」といわれます。けれども、それを聞いて「ああ、リラックスしなくては」とマインドが思うとしたら、それは身体を心に従属させてしまうことになります。リラックスがいけないわけではありません。しかし、それは目的ではなく結果としてもたらされるものです。リラックスを目的とするとというのは、頭でイメージした理想状態に身体をはめ込もうとすることです。それはアタマによるカラダのコントロールです。ただ、アタマのコントロール力は強いので、それにカラダが反応して、暗示効果でリラックスしたつもりの感覚がこみ上げてきたりするので、なおさらややこしくなります。


マインドフルネスというのはマインドで身体をコントロールすることではなく、逆に身体をマインドによる支配から解放してやることだといえると思います。ちなみに、ここでいうマインドとは「自我」や「アタマ」といったような意味で、「マインドフルネス」というときの身心をともにふくめた広がりのある「こころ」の意味ではありません。ちょっと、ややこしいですが。


ともあれ、そうした狭い意味でのマインドによる身体のコントロールとは、結局のところ身体の機械化です。身体を道具として使うという意味で、それは身体の疎外です。ですから、マインドフルネスでむしろ注意を向けなくてはならないのは、マインドというとらえどころのないものではなく、身体のほうです。


では、どのようにして身体をマインドのコントロールから解放するのか。時間がないので技法的なことにはふれませんが、だいじなのは身体の知を浮上させることだと思います。身体の知とはなんでしょう。かんたんにいうと、2つの大きな特質があると思います。1つは、「つねに生きようとしている」ということ。もう1つは、「つねに現在に反応している」ということです。


「つねに生きようとしている」とは、どのような瞬間においても身体は無条件に生きようとしている、ということです。怪我をしても身体はその瞬間から修復をはじめます。身体が「重症だから治療しても無駄だ」とみずから修復をやめることはありません。そう考えるのはアタマです。身体には死をむかえるそのときまで、つねに生命へ向かうベクトルとともにあります。


もうひとつの「つねに現在に反応している」ですが、これは身体はいま起きていることにだけ反応するようにできているということです。アタマがちょっかいを出さないかぎり、いま起こっていることが身体にとってはすべてです。いま殴られたら、いま痛い。そしてその次の瞬間から修復を開始する。そうやってたえず生命の更新をくりかえしている。それを身体の知といっていいかと思います。


これに対して、マインドは、みずからの思考を正当化するためには自分を傷つけたり、ときには自分を殺したりすることもいといません。また、「現在」よりも、言語によってつくられた「過去」や「未来」のイメージに反応しがちです。目の前で展開していることよりも、過去の想念のほうにリアリティを感じます。これは言語能力と大きく関わっています。この能力があるがゆえに、人間は作戦や計画を立てたり、本を読んだり、なにかを創りあげたりという、いまここにある現実以外の、もうひとつのリアリティを経験することができます。マインドと身体はけっして対立しているわけでも、どちらがよくて、どちらが悪いというわけでもなく、互いに補完しあう関係にあります。

 


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そろそろ、まとめに入りたいと思います。先ほど近代合理主義とは想定外を想定内に収めようとする考え方だと申し上げました。しかし、現代という時代は、もはやそれが立ちいかなくなっています。無理に行おうとすると、差別や暴力がかならず起こってきます。金融や市場の分野では VUCA(ヴーカ)の時代といわれます。これは、Volatility(不安定) Uncertainty(不確実)、 Complexity(複雑性) Ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字をつなげたことばで、アフリカの過酷な地を旅するのと同じように、予測不能な不確実な状況を意味します。


そうした時代に大切なのは、想定外を想定外のままに受けいれ、対応する力です。変化があっても、まあ、なんとかなるさと思えるような自分と他者への信頼感です。それはマインドではなく身体からもたらされる柔軟な知である気がします。なぜなら、わたしたちのだれもが身体という想定外な存在とともにあるからです。


ただし、それは、よくいわれるように、かならずしも安らぎに満ちた、おだやかで、スッキリと癒されるような感覚とはかぎらないと、わたしは思います。さきほど旅の話でお話ししたように、イライラするときはするし、腹も立つし、ときには爆発もする。でも、それでもまあいいや、と感じられるようなありかたです。感じられないときもありますが。


マインドフルネスとはモヤモヤがなくなってスッキリするのではなく、モヤモヤしていても、リラックスできなくても、スッキリしなくても、まあいいや、そんなもんさと感じられる、というありかただと思います。だから、安心してモヤモヤしましょう。あまり説得力がないですが(笑)。


逆に「スッキリした」というのが、想定外を想定内に収めたことでしかないこともあるでしょう。スッキリするにこしたことはないですが、生きていくうえではスッキリしないことのほうが圧倒的に多いので、むりにスッキリしなくてもかまわないということです。


「わたし」が生きているとは、それだけで、すでに想定外なことです。想定外だけど、なんとか生きている。そこに深くふれていくことが、マインドフルネスということの一面なのではないか、と思います。また、マインドフルネスへの関心は、複雑で読めない想定外の世界を、むりに読めるものにつくりかえず、そのままの状態で受けとめていくためのありかたとして注目されているからではないかと思います。ありがとうございました。


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