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2017年3月

なにを見ても、なにかを思い出せない。。

『なにを見てもなにかを思い出す』というヘミングウェイの短編がある。小説の内容よりそのタイトルにひかれていた時期がある。初めて会う人が、知人のイメージに重なったり、初めて来た場所が過去に見たことある風景を思い起こさせたりということが、いまから10年くらい前までよくあった。


ある程度の長さ、人生を生きてくると、たまった知識や経験が、おのずと目の前の風景に重なるのは自然なことかもしれない。それを人生の豊かさという言葉で表したりもするのだろうが、そのときは豊かさよりも、むしろなにかを思い出してしまうことで、自分が過去の記憶や経験に閉じこめられているような息苦しさを感じていた。


ところが、最近はそういうことが、あまりなくなった。なにを見ても、あまりなにかを思い出さなくなった。過去の記憶を参照して目の前の風景や人を見るということが前ほどなくなってきている。だから、なんどか会っているひとにも、つい「はじめまして」といってしまったりする。。。


たんに忘れっぽくなったせいもあるだろうが、それにくわえて、人生の残り時間が意識されるようになってきたこともあるかもしれない。目の前に起きている現実ーー人との出会いだったり、風景だったり、自分じしんだったりーーが、よくもわるくも、これまでいちども起きたこともなければ、もう二度とくりかえすことのない一回かぎりのものなのだ、という事実にいまさらながら気づく。そこに過去の経験がレイヤーのように重なって感じられることはある。けれども、そのレイヤーに現在に侵入する力はもはやない。過去は手の届かないところに不安げに漂っている。


この「時」が「二度とくりかえすことのない一回かぎりのもの」だとしたら、未来は予想できないし、先も見えない。先が見えないと、ひとは不安になったり心配になったりする。でも逆に、先が見えてしまっても、ひとは不安になったり絶望したりするものだ。『なにを見てもなにかを思い出す』を書いたヘミングウェイも結局自死を選んだ。昨今のテロや紛争も「先が見えないから」というより、「見えすぎてしまった先」をこわしたい衝動に由来しているようにも思う。


見方によっては「先が見えない」とは一回かぎりの新しさの中を生きていることであり、それは先の見えてしまった絶望にくらべると、希望にもなりうるのかもしれない。そのことを感じたのは、10年くらい前、認知症になった母を見ていたときだった。


母は5年にわたって認知症で入院していた。認知症の症状はひとによってさまざまだが、母は認知症になる前から、不幸な結婚生活の記憶のせいで、被害者意識を抱えるとともに、それを十分に受けとめられなかったぼくにたいして愛憎入りまじった激しい攻撃性を見せてきた。それが亡くなる前の一年、認知症の進行にともない過去の記憶がうすれていくとともに、母は憎悪や苦悩から解放されていった。それは認知症の悪化による脳の萎縮のせいであったのだが、ぼくにはむしろ数十年ぶりに母の意識の中に光が射してきたようにすら感じられた。


記憶を失うことで、母はぼくをだれかとまちがえることもあった。それでも、そこにぼくがいることを母は心から喜んでくれた。話をしているさなかも母の記憶は泡のように、たちまち消えてしまうのだけれど、そのたびにぼくは新しい息子として、母の前に出現していたのだと思う。そこでぼくは母と何十年ぶりかに「まとも」な会話をした。こうなる前にそういう会話をしたかったとも思ったが、それでも最後の数ヵ月、母の表情が目に見えて安らかになってきたのは、ありがたいことだった。


ありがたい、といえば、「ありがとう」という言葉の反対は「くたばっちまえ」でも「呪われよ」でもない。「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのだという。なぜなら「有り難う」とはめったに起きることのない例外への賛美だからだ。坊さんのしそうな話だが、そのとおりで坊さんのした話だ。


一方、「あたりまえ」とは「なにを見てもなにかを思い出す」ことであり、「日の下には新しいものはない」ことであり、「先が見えてしまう」ことだ。知識や経験や記憶は、えてしてひとをあたりまえの世界に追いやり、その中に閉じこめてしまう。そのあたりまえが快適ならいいが、そこが苦悩に満ちているとしたら、そこから出たい。自分で出られなければ忘却にたよるしかない。できれば建設的に忘却したいものだが思うようにはいかず、なんどか会った方にも、つい「はじめまして」といってしまうかもしれないが、どうかおゆるしください。。あひる商会CEO誕生日の夜に。<(˘⊖˘)>



明日世界を終わらせないために

3月15日と16日に「明日世界が終わるとしても」と題して、2夜連続でそれぞれシリアとルワンダで支援活動をされている日本人を取りあげたドキュメンタリーが放映された。2夜目で取りあげられた佐々木和之さんは、ルワンダのプロテスタント人文社会科大学の平和紛争研究所で、いまだつづく虐殺の当事者たちの葛藤や苦しみを12年にわたって見つめつづけてきた方。昨年秋に来日されたとき東京外大で話をうかがったことがある。


虐殺から23年、経済力のあるひとは村を出て行ったが、大半の人たちは生活のために惨劇のあった村にとどまらざるをえない。親族を殺されたり自分を傷つけたりした加害者と同じ場所で、被害者が生きていかなくてはならない。信頼回復のために、加害者を訴追するだけではなく、加害者による告白と謝罪などの取り組みもなされてきた。とはいえ当然ながら信頼回復はかんたんではない。


差別を合法化していた旧政権にたいして、現政権はフツとツチのエスニック表記をなくすことで「みんな、いっしょなんだから」みたいな路線をとろうとしている。一見よさげに聞こえるかもしれないが、実際にはいまなお特定の集団が優遇されている現実がある。しかし建前上、差別がないとされることによって、かえって格差や不平等が強化、隠蔽され、再生産されていく。経済的な配分の不平等にたいしてすら批判の場さえない。外大の講演ではこうした構造的な矛盾や現実の複雑さについてふれられていて興味深かった。


被害者女性と加害者男性との和解をとりもつ対話のシーンは、とても印象的だった。自分の気持ちを話すとき、被害者に丸い石を持たせる。加害者はだまって耳をかたむける。こんどは加害者がその石を手にして自分の奥深い気持ちを話し、被害者がじっと聞く。何日もかけて、そうした対話をくりかえす。23年間、自分を苦しめつづけていた記憶がかんたんにいやされるはずはないが、それでもほんのわずかずつ変化が生まれる。そうした感情のこまやかな揺らぎが、短い枠の中で、ていねいにすくいとられていた。


1夜目のヨルダンのアンマンでシリア難民の訪問支援をされている田村雅文さんのドキュメントもよかった。訪問先のあるシリア難民はUNからのアメリカ移住へのオファーを断わっていた。彼は田村さんに「私のしたことは正しかったのか」となんども聞く。田村さんは否定も肯定もしない。先行きの見えない中、嫌がらせをされながらアンマンにとどまりつづけるより、変化を求めてアメリカへわたる選択もあるかもしれない。けれども、そういう助言や意見は口にせず、ただ彼の選択をみとめる。


傷つくのは一瞬だが、癒えるのには長い時間がかかる。けっして結果を急かさず、本人の中から変化が生まれるのを待ちつづけること、その遅々としたペースに時間をかけてつきあうことが、だいじなのだと伝わってくる番組だった。


残念な点もあった。「信念を持って生きる日本人の物語」というのがテーマだったためか、2夜目についていえば佐々木さんが講演で話されていたような構造的な矛盾には、ほとんどふれられていなかった。番組冒頭で「もう民族の違いはなくなった。われわれはみな同じルワンダ人だ」という町の人の声が紹介されていた。先ほどもふれたように、こういう口当たりのよいスローガンによって、現実に存在する差別や不平等は覆い隠されてしまう。「同じ○○人じゃないか」といって得をするのは政権の側にいる人たちだからだ。


実際、大学へ行けるエリート層はツチのほうが多く、政府の支援のおかげで働かないで勉強できるのもほとんどがツチだという。しかし、そのエリート層が、かつての悲劇によって強烈な被害者意識をもちつづけている。イスラエルもそうだが、エリート層が被害者意識をもちつづけるかぎり、構造的な矛盾は温存される。もっとも、このような問題は政権批判につながるのでテレビでは扱いにくいのだろう。


あともうひとつ、メインテーマになっている「明日世界が終わるとしても」という言葉にも違和感があった。これは「明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」というマルティン・ルターの言葉が出典だそうだが、田村さんにしても、佐々木さんにしても、明日世界を終わらせないために活動しているのではないのか。


これがもし「私が明日死ぬとしても、私はリンゴの木を植える」ならばわかる。私が死んで「私の世界」が終わったとしても、ほかのひとたちの世界はつづいていくからだ。


「明日世界が終わる」とは明日隕石かなにかが落ちてきて、この物理的な世界そのものが終わることを意味しているわけではないのだろう。明日がどうなるかはわからないけれど、いまできることをする。その行為が明日をつくる。そのことを信じようということではないのか。明日世界が終わってしまっては困るのだ。


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