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オープンダイアローグの「不確実性に耐える」をめぐって

オープンダイアローグの創始者のヤーコ・セイックラ氏と精神科医のビルギッダ・アラカレ氏の来日講演会が東大の安田講堂であった。


オープンダイアローグとはフィンランドで開発された対話をベースとした新しい精神療法(興味ある方は検索すれば、いろいろ出てきます)。画期的なアプローチとして一部で脚光を浴びている反面、日本での展開にはさまざまな困難もある。画期的といっても、そこでいわれているのは「患者本人のいないところで患者のことを決めない」とか「患者の話をよく聞く」とか、そのほとんどは拍子抜けするほど「あたりまえ」に聞こえることばかりだ。逆にいえば、そういうことがほとんどなされていなかった従来の精神医療の現場が、どれだけ異常だったかということだ。


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オープンダイアローグの基本的な考え方のひとつに「不確実性に耐える(Tolerate Uncertainty)」というのがある。この日もセイックラ氏はそのことにふれて、「これは治療ミーティングでいちばん大切なことです。正しい答えがあるわけではなく、つねにこれでいいのかという不安や恐怖に耐えて、そこで安心感をどう増やしていけるかを考える。それはエビデンス主義とか、専門家がすべてをコントロールするという前提に立つ治療のメインストリームとは真逆です」と語った。


「不確実性に耐える」とは、個人的にはアフリカの旅そのものだ。以前そのことをからめて「コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス」というテーマで話をしたことがある。


患者のことをいちばん知っているのは医師ではなく患者自身だ。ただ、患者本人が、自分について知っていることにたどつりつけない。自分を語る「言葉」を見つけられない。その言葉を見つけるために、患者によりそって対話の場所をつくるのがオープンダイアローグ(ということなのかな?)。そこでだいじなのは、変化を促すことではなくて、あくまで対話の空間を深めていくこととされる。


だが、そのためにスタッフに必要とされる専門性とか、経験値とか、知識とか、自信といったものは、ともすればその理念とは相反するタテの権力性につながりかねない、というパラドクスをはらんでいる。だからこそ、安全感の確保された対等な関係が意識されなくてはならない。


それはわかるのだが、権力というのは上にいるものにとっても下にあるものにとっても快楽をもたらす。社会では多くの場合、安全や安心がタテの権力性によって保証されてきた、もしくは保証されていると思い込まされてきた。その中にあって、対等なヨコの関係が安心安全にむすびつくというのを受け入れるのに抵抗のあるひともいるだろう。


たとえば、「あなたのことは、すべてわかっています。安心してください」といわれるのと、「あなたのことは、さっぱりわかりません。安心してください」といわれるのでは、どちらが「安心」できるだろう。前者はタテの権力性の中の発言であり、後者は対等である。あるいは前者があなたを「症状」や「事例」として見ているのにたいして、後者はあなたを「人間」として見ているともいえる。「あなたのことは、わかっています」という新興宗教の教祖っぽい言い方からは、自分をまるごと権力に明け渡すことで安心感が得られるかわりに、依存関係は強化される。


かといって、「あなたのことは、さっぱりわかりません。安心してください」といわれて安心できるひとはあまりいないだろう。医師とは「わかっているべき人」だと、患者が思い込んでいるからだ。だから、医師と患者、あるいは親と子、先生と生徒、上司と部下でもいいが、そういう関係性においては、どうやっても権力性が介在し、その権力性に双方が依存している。それが双方にとって都合よく機能すればよいが、この権力構造そのものによって不具合が生じている場合、「対等」になるためにその関係性をゆるめなくてはならない。それには「患者はこういうものだ」「医師はこういうものだ」という双方の「わかった」を手放さなくてはならない。


「わかった」あるいは「わかったつもり」は権力性や暴力と快楽をともにもたらすからややこしい。「あいつらはテロリストだ」というとき、「あいつら」のことは「わかっている」し、「テロリストは悪い」ことも「わかっている」という前提がある。本当はちっともわかっていないものを「わかったもの」に仕立て上げて排除・支配して、安心という快楽を得る。それはわれわれ自身、気づかずに無意識にやっていることだ。それを自分自身に向けて行いつづければ、ほんとうは「わかっていない」自分のありかたがなんとなく「わかった」もののような気がしてきて、要するに自分で自分をだましていることにすら気がつかなくなって、心身が機能不全を起こしていく。


「不確実性に耐える」とは、こういう「わかった」あるいは「わかったつもり」を手放すことなのだろう。患者を前にして、その症状だけを過去の事例に還元して「おまえのことは、するっとまるっとお見通しだ!」(ちと古い。。)といいたくなる誘惑をおさえて、「あなたのことはさっぱりわかりません。でも、時間はかかるかもしれないけれど、あなたの言葉をいっしょにさがしてみましょう」といって、そのひとの経験の独自性をうきぼりにしていくということなのだろう。それはすっきりしないし、不安だし、怖いことだけれど、それでもきっとなんとかなるだろうし、ならなくてもまあいいやくらいの気持ちで、安心してモヤモヤしよう、ということなのだろう。


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