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エジプト映画「ヤギのアリーとイブラヒム」

エジプト映画「ヤギのアリーとイブラヒム」を早稲田の戸山キャンパスで見た。コミカルでファンタジーなロードムービーで、とても楽しい作品だった。来週9/9(土)にも大阪の民博でも上映会があるのでその案内もかねて。


カイロの庶民街に暮らす2人の若者。ひとりは耳鳴りに悩む才能あるミュージシャン、もうひとりは一頭のメスヤギを死ぬほど愛していていて、どこにいくにもいっしょに連れていくので、まわりから変人扱いされている。この2人が自分たちの悩みを解決するために、呪術師のアドバイスのもと、カイロからアレキサンドリア、シナイ半島のダハブへと旅をする・・・。


コミカルでテンポのいいやりとり、カイロの繁華街や下町、ナイル川や地中海、紅海の美しい風景など、エジプトに住んだり旅したりしたことのあるひとなら、 文句なしに楽しい。けれども、それにくわえてよかったのは、この作品が人間の孤独の本質を、けっして深刻ぶることなく、さらりと、しかしあざやかに描いていることだった。

世界には70億ものひとがいるけれど、だれひとりとして同じ世界を生きてはいない。「私」の見ている世界は、「私」以外のだれにもけっして見ることができない。にもかかわらず、ひとびとは相手と自分が同じ世界を見ていると思い込むことで、自分がたったひとりの世界に生きていることを感じないようにしてい る。


しかし、ここに登場するヤギを恋するアリーと、耳鳴りのイブラヒムが生きている世界は、ほかのだれにも理解されない。耳鳴りは本人にしか聞こえないし、ヤギへの愛情も本人にしかわからない。もちろん、だれもが自分にとってだいじな世界をもっているだろうけれど、たいていは他者と共有できる領域をとおして世 界とのつながりを保っている。しかし、アリーにとってはヤギ(ナダという名前)なくして世界とのつながりはないし、逆にイブラヒムにとっては耳鳴りが世界とのつながりを妨げている。


「聞く」ということがこの映画ではキーになっているように感じた。2人が孤独なのは、彼らがおかしいからではなく、彼らに聞こえているものを、まわりのひ とが聞く術をもたないからだ。アリーにはわかるヤギの言葉の意味も、イブラヒムの脳内をつらぬく耳鳴りも、まわりのひとには聞こえない。


映画では、その聞こえない音や言葉がまわりのひとたちにも聞こえるようになるかどうか、というあたりが展開のモチーフになっている。自分にしかわからなかった言葉がひとにもわかるようになり、自分にしか聞こえなかった音がひとにも聞こえるようになれば、世界はいままでとはちがうかたちであらわれる。この くらいならネタバレにはならないと思う。

映画を見ていたとき、登場するヤギの名前が「ナダ」というのが気になった。ナダ(Nada)とはサンスクリット語で「音」を意味するからだ。それもただの音ではなく、世界を創造する根源的な音といったような哲学的な意味を含んでいたと思う。ナダという名のヤギは、まさに音をとおして、2人の世界を再創造す るきっかけとなったという意味で象徴的だなあと思って見ていたのだが、実際に監督はそんな意味を込めてつけたのかなと思い、上映後、監督に直接聞いてみたところ、「ナダはエジプトの女性によくある名前です。それだけです」といわれた。ぜんぜんちがった(笑)。


来週の9月9日(土)には大阪の国立民族学博物館でも上映会+監督インタビューがあります。大阪の人たちぜひ。手話通訳付です(´Θ`)ノ


Yagi20170909


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