音楽

定額給付金による補填+王道進行の話

負けてしまった。更新が遅れてマイナス一万円である。まあ、昨今の金融危機に比べればたいした損失ではないし、もうすぐ定額給付金とかで一人あたり1万2000円もらえるそうだ。じつにありがたい制度であり、政治家というのはやはり賢い人たちだなあ……などと思う人が本当にいるのだろうか。


政治の話などしたくないのだけれど、アメリカでオバマが大統領になるという、ちょっと前まで想像もできなかった現実が起きているというのに、日本では金のばらまき政策が真剣に議論されている。いったい、一人1万2000円もらって、なにが変わるのだろう。冗談ではないのか。国民一人に1万2000円あげることで、いまの日本社会を覆っている数え切れない矛盾や問題の、いささかの解決にでもつながると本気で政治家は考えているのか。


いやいや、政府というのはありがたいねえ、1万2000円ももらっちゃったよ、どうやって使おう。やはり貯金しようかしら、それともユニクロで家族みんなの分の冬物でも買おうかしら、それともデニーズで豪遊しちゃおうかしら、でも、そんな贅沢しちゃバチが当たるわね。それにしても、さすが優秀な政治家は国民のことを考えてくれているのね、日本に生まれてよかった……なんて思う人が、ほんとうにいるのだろうか。


たとえば、多額の負債を抱えて自殺しようとしている中小企業経営者のもとに1万2000円がふりこまれたら、彼は自殺を思いとどまるのだろうか。仕事が見つからず、ネットカフェで寝起きしている人が1万2000円給付されたら、よし明日も頑張ろうと生きる希望が湧くものだろうか。


いったい、この政策が施行されたとして、1億2000万人のうち、どのくらいの人が、ああ、よかった、ありがたいことだと思えるだろうか。もちろん、政策とは危機的状況に対処するためのものばかりとはかぎらない。けれども、なぜ、いま、この時期に焼け石に水以下のばらまきなどという発想が出てくるのだろう。わからない。

 
思うに、いまの日本が抱える深刻な問題は、将来に希望が見えないことだ。自分がいま歩いている道が、なにか、より確実で、自由なものにつながっているはずだという予感があれば、ひとは、たとえいまがつらくたって、歩いていこうという勇気を持てる。

 
今日一日を充実して生きるのに必要なのは、今日の糧だけではない。意識的であれ無意識的であれ、今日のあとに明日があり、その先に未来があると思えることが大切なのだ。けれども、ぽんと1万2000円もらったからといっても、そんな希望が見えるだろうか。せいぜい一人ギャンブルの穴埋めをするのが関の山である。それだって、この先ぼくが負け続けて負債がふくれあがったら、そうもいかない。


一人1万2000円といえば全国民なら1兆5000万円くらいになる。たしかに中途半端な額かもしれない。でも、これだけの予算があれば、たとえ国民全員をどうにかすることはできなくても、なにかの制度やシステムを変えて、山積する問題の一つや二つを解決することは、頭を使えばある程度、できるはずである。そのための政治家ではないのか。都市部の救急医療システムを改善するとか、母子家庭の支援を充実させるとか、年間3万人を超える自殺者が出る状況を本気でなんとかするとか、いくらでもあるだろう。ばらまきというのは、いちばん頭を使わなくていい、しかも、失敗しても責任を問われない、もっとも下らない金の使い方である。


ガンで亡くなった筑紫哲也さんがネットで最後に語っていたのが、この国はガンに冒されているということだったそうである。ガン細胞は、本来宿主が必要としている栄養分を吸い取ってしまう。そのため宿主である本人には栄養が十分いかず衰弱していく。今回の給付金制度というのも、同じようなものではないか。必要なのは、宿主つまり人びとが希望が持てるような社会システムに栄養を与えることになのに、そっちに栄養は与えず、いまの状況を固定化するほうに金をつぎ込もうとしている。だが、ひょっとして、それは浅はかな見方で、じつは、そこにはじっくり考えぬかれた深い意図でもあるのだろうか。ワカラナイ、ワカラナイ。頭から煙が出そうである。


暗くなるので話題を変えよう。前回の話の続きである。前回、音楽には文化的背景を含めた〈気持ちいい展開〉という暗黙のルールが存在し、同じようなメロディー展開をする楽曲はこの世に数多に存在する、という陶山さんの話を紹介した。その後、ニコニコ動画という動画サイトで、「音極道」という人が、J-Popのヒット曲に共通する音楽的構造について、みずからの演奏入りで解説しているのを知った。これが、たいへんおもしろかった。


前編後編合わせて見ると25分くらいかかるが、演奏付きで、説明もていねいで、とてもわかりやすい。業界の人には自明のことなのかもしれないが、そうでないひとにとっては目から鱗が落ちる分析だと思うので、見て損はない。ちなみにニコニコ動画というのは登録制(無料)である。ただ、登録が面倒な人とか25分も時間がないという人のために、かんたんに内容を要約する。


音極道さんによると、J-Popの一部のヒット曲には、この30年以上にわたって使われつづけているコード進行のパターンがあるという。このコード進行はとくにサビの部分で使われており、これが日本人に特別に好まれてきたという。どういうものかというと、こんなコード進行である。

Ⅳ△7 Ⅴ7 Ⅲm7 Ⅵm

たとえばハ長調だと

F△7 G7 Em7 Am (クリックで再生)

となる。


楽器をやったことのない人にはぴんとこないかもしれないが、聞いてもらえばたいへん耳慣れた展開であることがわかる。彼はこの進行を「王道進行」と名づけて、このパターンを使ったいろんなヒット曲をとりあげ、最終的に、現在J-Popが陥っている危機的状況にまで話を展開している。

音極道さんがあげている王道進行のサビをもつヒット曲は、古いものから

オリビアを聞きながら/杏里(1978)
いとしのエリー/サザンオールスターズ(1979)
悲しい色やね/上田正樹(1982)
シーズン・イン・ザ・ワン/TUBE(1986)
世界でいちばん暑い夏/プリンセスプリンセス(1989)

など。わりと新しいものだと

LOVEマシーン/モーニング娘。(1999)
EVERYTHING/MISIA(2000)
FRAGILE/ Every Little Thing (2001)
さくら/ケツメイシ(2005)


などがある。動画にはもっとたくさんの曲があがっている。動画ではキーを同じにしたものが連続して演奏されており、聞いてみるとどれも驚くほど似ている。もっとも、ぼくがこの中でタイトルを聞いて曲が思い出せたのは「いとしのエリー」だけだった。いとしのエリーだと「わらって もっと べいべ〜え〜 むじゃきに おんまいまいん」というところが王道進行である。先の音声ファイルを再生しながら、いっしょに歌ってみると、よくわかるはずである。


彼は後編の動画で海外の曲における王道進行の使われ方にふれ、それが日本のポップスにどんな影響を与えていったか、そしてその濫用がもたらした弊害などにも論を進めている。ぼくはユーロビートというのがどんなものなのかすら知らなかったので勉強になった。

 
 

ひとりギャンブラー日記:

損益 −10000円
ただし、政府定額給付金(1万2000円)にて補填し、
差し引き残高 +2000円
次回は、ちまちました賭け方はやめて、ギャンブラーらしく少し太っ腹にいってみたいと思う。
一週間以内の更新に、どーんと……10万円である。


| | コメント (4)

似ているような似てないような

久々に音楽の話題。このページの左下の方に昔つくった音楽の一部がリンクされている。先日、それを聞いたある人から、この「On the Road」というCDに入っている「East Wind」という曲、一青窈の「かざぐるま」によく似ているのだけど、といわれた。


ちなみに一青窈というアーティストがいることは知っていたが、「ひととよう」と読むとは思わずずっと「いっせいとう」だと思っていた。しかも、女性だと知る前は、一風堂(古い……)みたいなバンドだろうとなんとなく思っていた。


それはさておき、さっそくYouTubeで検索してみた。


これがEast Windで、以下が「かざぐるま」(作曲:武部聡志)である。よかったら聞き比べてみてほしい。


サビの展開はぜんぜんちがうし、なにより楽曲のクオリティだって比較にならないのだが、たしかにくらべてみると、最初の2コーラスくらいは似ている気もする。


かざぐるまの方があと(2005年)に出たものなので、ぼくが真似したわけではないし、もちろんその逆もないだろう。実際、これほどたくさんの曲が作られているのだから、似てくることだってあるだろう。


けれども、いったい、どのくらい似ていると、それが問題と見なされるのだろう。仮に自分がプロの音楽家で、この曲を人目に触れるかたちで正式に発表していたとしたら問題になりうるのだろうか。


そこでプロの音楽家に聞いてみた。陶山隼(すやま・じゅん)さんという方で、数年前、彼からコンピューターを使ったデジタル音楽機材の使い方を教えてもらっていたことがある。もっとも、ていねいに教えてもらっても、頭がついていかず、つくづく自分にその手の才能がないことを思い知った。なんでこの手の機材は家電みたいに操作がかんたんにならないのだろう。
 

当時彼はバイク便の仕事などしながらがんばっていたが、いまや柴咲コウとか川嶋あいとかBoAとか関ジャニ?とかに楽曲を提供している売れっ子である。いまやっている上戸彩の出ているオロナミンCのCMで、青山テルマがうたっているのも彼の曲である。


で、その陶山さんに聞いてもらったところ、「まちさん、これは明らかにそっくりです。訴訟すれば100パーセント勝てます!」ということはまったくなく、「音源を聞いた感じでは似ているように感じましたが、分析してみると完全に同じラインになる部分が一小節ちょっとあるとはいえ〈似て非なるもの〉というのが私の見解です」とのひじょうに冷静な分析をしてくれた。ほっとしたというか、ちょっとがっかりしたというか。


彼は、わざわざ二つの曲を譜面に起こしてまでくれた。

Hikaku_3

陶山さんによると「音楽には文化的背景を含めた〈気持ちいい展開〉という暗黙のルールが存在し、同じようなメロディー展開をする楽曲はこの世に数多に存在します……コードに捕われずにメロディーに執着すればきっと同じコード進行の曲を耳にした時にも『あ!』とは思っても、逆に『同じ感性を持った人が居た』と喜べるはずです」という。なるほど。


今回のような展開のパターンで、彼がすぐ連想したのは久石譲の「塚森の大樹」という曲だという。「となりのトトロ」の中に出てくる曲である。ここなどで聞くことができる。なるほど。ちなみに、「かざぐるま」という曲は藤沢周平原作の「蝉しぐれ」という映画のイメージソングだったという。East Windもなんかのイメージソングで使ってくれないかな。陶山さん、お忙しいところありがとうございました。
 


ひとりギャンブル記:

負けてしまった。更新が一日遅れ所持金ゼロに逆戻り。プレッシャを高めるために一週間以内の更新にどーんと1万円を張ることにする。


| | コメント (6)

「のだめ」のこと

久しぶりに音楽の話。帰国してみたら、なぜかテレビの写りがひどく悪くなっていた。楽しみにしていた「のだめカンタービレ」もこれでは見られないではないかと思ったら、ふだん音楽にほとんど関心を示さない奥さんが、きれいに録画された「のだめ」のDVDを、自分の妹から送ってもらっていた。「のだめ」のコミックもいつのまにか本棚に16巻まで並んでいて、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ていいわよねえ、なんてのたまわっている。

その曲ならこれまでだって、家でなんどもかけていたはずだが、本人の記憶にはまったくないらしい。あの甘美な第二楽章が流れているときに、洗濯物をたたみながら、こういう穴の開いた靴下は捨ててちょうだいよ、それにこのパンツ、ゴムがよれよれよ、これじゃずり落ちてきちゃうんじゃない、これも捨てていいわよね、などとぶつぶついっていたことも、よもや覚えてはおるまい。

もっとも、映画やドラマを通してその曲のよさに気づくというのは、専門家にしても変わらないようだ。ずいぶん以前、モーツァルト毒殺説を扱った「アマデウス」という映画が公開されたとき、音楽評論家の吉田秀和が作家の大岡昇平に、あの映画を見てモーツァルトの音楽はあらためていいなあと思った、といったようなことを話しているのを読んだことがある。

高名な音楽評論家ですら、映画のような物語の中で音楽を聞くと感激するのだから、そうでない人ならなおさらだろう。純粋に音だけでその曲のよさを味わうなんてことは、じつはあまりないのかもしれない。その曲を弾いているひとがハンサムだからとか、美人だからとか、諏訪内晶子だからとか、高木綾子だからとか、村治佳織だからとか、三村奈々恵だからとか、ちょっとジャンルはちがうが山中千尋だからとか、自分にはよくわからないのだが、そういう理由でCDを買う人がいるらしい。たまたま偶然、気づいてみれば、自分もこうした人たちのCDをわりと持っているのだが、もちろん自分の場合、純粋にその演奏に惹かれたからだということは強調しておきたい。

ちなみに、外国などにいて日本の事情がわからない人のために書いておくと、「のだめカンタービレ」とは、クラシック音楽をモチーフとした、いま日本で大ヒットしているマンガであり、現在テレビドラマ化されて放映中である。悪臭に満ちたゴミためのような部屋の中で人並み外れた美しいピアノを奏でる変人音大生・野田恵(通称のだめ)と、指揮者をめざすエリート音大生・千秋をめぐって集まる変人音楽家たちの人間模様を描いた作品である。

クラシック音楽を取り上げたマンガというと、これまではたいてい浮世離れした王子様やお姫様みたいな主人公が出てきたり、猛練習でピアノの鍵盤が血に染まっているとか、嫉妬のあまりバイオリンの弦に毒を塗ってライバルを陥れるといったエピソードがあったり、不治の病を隠していた主人公が演奏を終えた直後、倒れて絶命するといったゴシック・ロマンスぽいものが多かった気がする。けれども「のだめカンタービレ」は、クラシック音楽をリアルな日本の生活感と結びつけ、しかもギャグ満載のコメディーにしてしまったという点で類を見ない。

音楽マンガに傑作が少ない理由の一つに、マンガからは音楽が聞こえてこないからということがいわれる。いくらコマのなかに音符を書き入れようと、ロックコンサートの場面でギターソロやドラム演奏の場面を「ギョワーン」とか「ズダダダ」といったオノマトペとともに描こうが、やはりそこから実際の音楽はなかなかイメージしにくい。昔はよく、レッドツェッペリン物語とか、ピンクフロイド物語といった読み切りのロックバンドの伝記マンガがあったものだが、これとてもそこから彼らの音楽が聞こえてくるほどの迫力は、なかなか感じられなかった。

しかし、「のだめ」の場合、音楽が聞こえてくるのだ。聞こえてくる、というと語弊があるが、聞こえてきても不思議はないような気にさせてくれるのだ。たとえ、その曲を知らなくても想像がわいてきて、その曲を聞いてみたくなる。こういう音楽マンガはこれまでなかったように思う。ただ、これを読むようになってから、奥さんまでが(芸のない)のだめ化してきているのが、すこし気になる。

| | コメント (9)

夏のディーリアス

暑中お見舞い申し上げます。

更新を怠っているうちに、気がつくと真夏になってしまった。ご心配くださっていた方々には、心よりおわび申し上げます。

忘れていたのではない。更新までの間があくと、「読んでくれている人のため次は少し長めに書こう」と考え、なにを書くか考えているうちにさらに間があいてしまう。そうなると、「次は長いだけではなくて内容のあるものを書かないと、このブランクのいいわけにはならない」と思ってしまう。そのうちにまた時が過ぎ、こんどは「長くて、内容があるばかりではなく、なおかつ、あっと驚かせるものを書かなくてはもはや許されまい」などと悲壮な気持ちになってくるのである。

しかし重圧におされ、なおもブランクは広がりつづける。すると、もう文章だけでブランクをカバーするのは不可能ではないか。読者に粗品のサービスでもしなければしめしがつかない、と覚悟をかためたものの、粗品の種類が決まらぬまま、なおも月日は過ぎる。結局、粗品ではすまなくなり、それなりのブランド品でなくては申し訳が立たないのではないかと、さらに自分を追いつめつづけるのであった。

これではいけない。こんな状態が続けば、いずれブランド品どころか海外旅行でもプレゼントしなければ信用が回復できなくなる。コメントをくださったまきさんにはダイヤモンドでもさしあげないと落とし前がつかない。ただのブログなのに、どうしてそこまで妄想してしまうのか自分でも不可解だが、気持ちのうえでは多重債務で首が回らなくなった人の心境だ。こうなったら残された道は自己破産しかない。ダイヤモンドや海外旅行はもとより、ブランド品も、粗品も、あっと驚かせるものも、内容もないのだが、どうかおゆるしいただきたい。デザインもすっきりしたものに変え、思い切って更新である。

 
 
 
さて、季節は夏真っ盛りだが、夏になると聴きたくなるのがディーリアスである。ディーリアスは100年くらい前に生きたイギリス生まれの作曲家で、その名も「夏の歌」とか「夏の庭園で」といった夏をテーマとした作品をいくつか書いている。

ディーリアスの音楽には、とらえどころがないものが多い。テーマとなる旋律や構造があまりはっきりせず、まるで雲が形を変えながら風に流されていくように、あるいは、朝靄が光の中で薄れて消えていくように、あいまいで、きまったかたちをもたない。少し聞いただけでは叙情的でわかりやすい音楽のように響くのだけれど、悪くいえばめりはりがなく、聞いたあとで印象に残りにくい。嫌いではなかったけれど、とくに個人的に好きというほどではなかった。

そんなディーリアスの音楽が、自分の中で夏という季節と分かちがたく結びついたのは、恩師であった作家・辻邦生さんが亡くなってからだった。何年も前の夏の盛りだった。ささやかな葬儀が行われたのは、軽井沢の森の中にある辻さんの夏の山荘だった。

辻さんは夏が好きだった。地上にあることの豊潤なよろこびを夏ほど濃密に五感で味わえる季節はないからだ。その愛した夏に、大好きな軽井沢で辻さんが亡くなったのは、恩寵ともいえるはからいなのかもしれなかった。

山荘のまわりは高い木々にかこまれ、その無数の枝から広がる若葉の茂みを透かして夏の澄んだ光があたりを満たしていた。辻さんの死も、この光や陶酔の一部となって、この豊潤な夏の気配をささえているのではないか。そんなことを思った。

ディーリアスの「夏の歌」を聞いたのは、それからしばらくしてからだった。なんどか聞いていたはずの音楽だったが、軽井沢の夏の光がいまだからだを満たしていたせいか、その響きはずいぶんちがって聞こえた。いままで聞こえなかったこの音楽の音にならない部分が、からだの奥深くにしみこんで自分を内側から満たしていくようにすら感じられた。この音楽にこめられた夏の気配や陶酔やよろこび、哀感や絶望などが自分の肉体を通じて共鳴するような感覚だった。

のちに、ケン・ラッセルが晩年のディーリアスを主人公としてつくった映画「A Song of Summer」(1968)を見て、彼がこの曲をつくったのは梅毒のために目が見えなくなり、四肢の自由も失った最晩年であったことを知った。映画ではディーリアスは救いがたいまでに偏屈で意地の悪い老人として描かれているが、実際、そのとおりだったらしい。「夏の歌」はディーリアスを慕ってやってきた、けなげな若い弟子が、さんざんな意地悪を受けつつ、そのハミングや口頭による指示によって構成した作品である。

うつろいゆく夕闇が、刻々と一瞬前の風景を打ち消しながら闇に沈んでいくように、ディーリアスの旋律もあらわれるそばから消えてゆく。ある旋律が立ち上がりざま一瞬きらめいたと思ったら、はっきりとした輪郭をあたえられるいとまもなく、次の瞬間には大気の中にとけ込んでしまう。だから、ディーリアスの旋律は口ずさみにくいし、頭の中で反芻しにくい。

けれども、夏の光が大気の中に満ちてくるようなこの季節になると、なかなか思い出せなかったディーリアスの響きが、ふいに陽炎のように風景のなかに気配となって立ちあがっているのに気づく。風に揺れる若葉や、水に映る午後の日ざしや、暑い草いきれの中を舞う羽虫の恍惚のなかに、いつまでもけっして過ぎ去ることのないディーリアスの夏が奏でられている。

  

| | コメント (7) | トラックバック (0)

*恐れを知らないコンサート

恐れを知らないコンサート

以前書いた恐れを知らないアサカワ君がライブを企画した。アサカワ君が出るのではなく、彼の奥方の単独ライブである。彼の奥方は、音大のクラシック声楽出身である。今回は自作の曲のピアノによる弾き語りを中心としたコンサートを開くという。

奥方の歌は聞いたことがある。声楽をやっていただけあって、張りのきいた伸びのある美しい歌声だ。どんなライブになるのか楽しみにして、当日、会場のライブハウスに出かけた。

会場につくと、開場前から長蛇の列だ。宣伝もほとんどしていないというのに、たいしたものである。アサカワ君に会うために、開場前にライブハウス内に入れてもらう。アサカワ君と奥方のほかに若い男女が10数人いる。スタッフにしては多い。バンドのメンバーなのか。

聞けば、彼らは奥方が歌を教えている生徒たちだという。しかも、彼らも出演するという。プログラムを見せてもらうと、なんと生徒たちの出番が全体の3割を占めている。こ、これは……。

アサカワ君に聞くと、出演させてあげるからチケットを買うようにといったのだそうだ。出演者にまでチケットを買わせるとは、さすが恐れを知らない。それも10数人もである。

奥方のリハーサルのあと、生徒たちのリハーサルが始まった。ギターとドラムという男の子二人がステージに上がった。しかし、これだけでは伴奏が貧弱なので、彼らはあらかじめつくったベースやキーボードの入った伴奏テープをバックに流し、それに合わせて演奏をするらしい。

テープが流れはじめ、それに合わせてギターがジャジャーンと入った。ところが、その響きを聞いて唖然とした。伴奏と楽器と歌のキーがまるで合っていない。しかも、なお驚いたのは、演奏者たちはそのずれを気にすることもなく、そのまま演奏をしている。こんなんで大丈夫なのか。

やがて開場となった。列をなしていたお客さんたちが店内に入ってくる。しかし、その数が尋常でない。どう見ても30人くらいしか入らないライブハウスなのに、客は優にその倍以上はいる。いったい、アサカワ君はチケットを何枚売ったのだ。

アサカワ君に聞くと、先日、お台場で農業見本市があったときに、自社(彼は農業関係の会社に勤めている)のブースで農機具や農薬などのパンフといっしょに、奥方のライブのチケットやパンフもいっしょに並べて売ったという。そのほか取引先をはじめ、あらゆるつてを利用して、チケットを売りまくったという。

そういわれると、中年のおばさんのグループやら、スーツを着込んだ役員風のオヤジの団体とか、よくわからないお客さんが目立つ。少なくとも、こういうライブハウスに来るような雰囲気の人たちではない。それより問題なのは、とっくに定員オーバーで店内が満員電車状態になっていることだ。入りきらないお客さんが入り口の階段まであふれている。

でもアサカワ君はどこ吹く風である。ちょっとチケットを売りすぎたみたいですね、と涼しい顔をしている。

ライブが始まった。奥方がピアノの弾き語りを始める。しかし、入り口では入りきらない人たちが押し合っている。店内では身じろぎもできず、低いステージぎりぎりまで人が押し寄せている。

数曲終わったあと、生徒たちの出番となった。さっきのギターとドラムの二人がステージに上がった。テープが流れ、演奏が始まった。さっきと同じである。キーは最初からずれているうえ、伴奏とドラムのリズムがどんどんずれてゆく。とんでもないことになっているが、ステージの二人はまるで気にしていないようで、「虹を越えて、ぼくらの夢は〜」とかシャウトしている。

これはちょっとまずいのではないか、とどぎまぎしながら客席に目をやると、お客さんもどう反応していいのかわからないようで、呆然としている。

そのあとも続々生徒たちの演奏がつづく。「この曲はわたしの勤めている幼稚園の生徒たちといっしょに歌うためにつくった曲です」といって、女の生徒さんが童謡めいた曲をピアノで弾き語る。ここは幼稚園か。

生徒たちの合奏はつづく。彼らはほんとうに歌を習っているのか。本気でプロのミュージシャン志望だというのか。NHK素人のど自慢の予選だって、もう少しましなのではないか。お客さんたちはこんなものを聴くために2000円払ったのか。暴動になるのではないかと、人ごとながら心配になってくる。アサカワ君を見ると、笑っている。笑っている場合か!

しかし、ここまで開き直った突拍子もない演奏がつづくと、逆に自分が置かれている状況のナンセンスさに笑いが込み上げてくる。なにかとんでもない別世界にまぎれこんでしまったのではないか。夢でも見ているのではないか。しまいには横隔膜の震えが止まらなくなり、涙があふれてくる。音楽を聴いて涙を流したのなんて、何年ぶりだろう。

演奏が終わると、静まり返っていた満員の客席からも、笑いが爆発した。笑いによって緊張がほぐれたのか、もう何でもいいやという気持ちになったのか、そのあとはなんとなく和やかな楽しげな雰囲気のうちに幕を閉じた。これも計算されていたことだったとしたら、たいした企画力である。

ステージ後、アサカワ君に、どうでしたかと訊かれる。かろうじて「す、すごかったね……」というと、彼も「これほどになるとは思っていなかったんですけどね、ハハ」と笑った。それから「また、こんどやるときも来てください」と恐れを知らない男はつけくわえた。

 
*後記

パソコンやネットの普及のおかげで、いまやだれでも自作の曲を発表できるようになった。中には思わず言葉を失うものもある。その中でも、このサイトで公開されているオリジナル曲はおそろしく衝撃的だった。一部ではカルト的な人気があるらしいが、なんともいえない。「僕はCDデビューしたいし」とのことだが、うーむ、アサカワ君なら彼をどうプロデュースするだろう。2001年の曲の「エビ、丸まってた」と2002年の「茶道部」が、けっこう好きだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

*ベートーベン七変化

以前、学校の音楽室に飾ってあるベートーベンの肖像画が怖いという話を書いた。右手にペン、左手に譜面をもって中空をキッと見据える、例の肖像画である。
Beethoven3_2

ベートーベンというと、この絵によってイメージがつくられてしまったといっても過言ではない。いまでもベートーベンを紹介する書物や記事のほとんどは、この絵を挿し絵につかっている。この絵は1819年にシュティーラーという画家が描いた肖像画だという。しかし、このほかにベートーベンの肖像画はないのだろうか。

探してみると、ほかにもあった。若いときのものもあれば、ほとんど犯罪者のような悪相をしたこんなのもある。
Beethoven_1

これなど気のいいパン屋の親父みたいである。
Beethoven_l_1

けれども、結果的に定番であるシュティーラーによる肖像画が、他を圧倒した。今日、それとともに、われわれの抱くベートーベンのイメージも、おのずと、あの絵に喚起されるような、困難を克服した意志の人というものに仕立て上げられていった。実際そういうところのある人だったのだろうとは思うが、時代もそういうイメージを求めていたのだろう。

『聴衆の誕生』(渡辺裕著)という本を読んでいたら、ベートーベンにまつわる絵画や彫刻の類が好んでつくられたのは、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてだと書いてあった。なるほど、この頃はドイツがフランスやオーストリアとの関係をめぐって、ぎくしゃくしていたときである。そうした時代にゲルマン民族の英雄たるベートーベンの神格化が推し進められたというのは興味深い。

じつはこの時期つくられたベートーベンの彫像の中には、ギリシア神話の英雄像みたいなのや、ミケランジェロのモーセ像みたいなのもある。見たことはないのだが、ベートーベンの誕生をキリストの誕生になぞらえたものまであるという。ウィーンにある像など、ベートーベンの足下を天使が取りまいている。ほとんど宗教美術の世界である。そして、こうしたさまざまな像に共通しているのは、その顔が、どれもシュティーラーの描いた顔をモデルとしていることである。

これは現代になっても変わらないようだ。ポップアートやイラストの世界でもシュティーラーによるベートーベンはフォトショップで色をつけられたり、宇宙服みたいなのを着せられたり、裸にされたり、さんざんである。オリジナルに忠実なはずの音楽室の肖像画にしても模写を重ねたせいで、すっかり色がおかしくなってこんなふうになっている。これは怖い。
Beethoven_1

それでも、もしシュティーラーがベートーベンを描かず、さっき見たパン屋の親父バージョンの肖像画しかなかったとしたら、作った音楽がいかに偉大であっても、これほど神格化されたり、遊ばれたりすることもなかったのではないか。肖像画もまた偉大だったのである。

*後記

ベートーベンの神話化を促したのは肖像画ばかりではない。彼にまつわるさまざまなエピソードそのものが、かなり神話的脚色を帯びていることは、今日ではけっこう知られている。

たとえば、有名すぎる交響曲第5番。ベートーベンがその冒頭のタタタターンというモチーフについて「運命はこのように扉を叩く」と語ったことから、この曲に「運命」という副題がついたとされている。しかし、これはベートーベンの雑用係をしていたシントラーによる作り話というのが、どうやら本当のところらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

*ベートーベンになる

クラシック音楽は日本でもずいぶんカジュアルな存在になったけれど、それでもいまだにどこか堅苦しいイメージを脱せないのは、小中学校の音楽室に原因があると思う。音楽室そのものではなく、音楽室の壁に飾られている作曲家の肖像画である。

幼いころからピアノでも習わされていたのならいざ知らず、それまでクラシックなんて聞いたこともない子どもたちにとっては、教室の壁をずらりととりかこむ独特の肖像画はクラシック音楽にたいするイメージに決定的な影響をおよぼすのではないか。少なくとも自分はそうだった。

あれは左から年代順に並んでいて、最初がバッハである。このバッハが強烈だった。となりのヘンデルもそうだが、とんでもない髪型をしている。
Bach_1

羊の毛のようにくるくるカールした巨大な蜂の巣にも似たその髪は、とてもふつうの人間のものとは思えなかった。その髪がカツラだということなど知らなかったから、こういう髪をした特殊な人だったのだろうと思っていた。休み時間には、「バッハ!」と叫びながら友だちの頭にモップをかぶせて遊んだりした。

怖かったのはベートーベンである。ぼさぼさの髪を逆立て、口をへの字に結んで、怒っているかのように前方を睨みつけている。
Beethoven3_1

音楽を聴く前に、ベートーベンは怖いというイメージができてしまった。放課後の音楽室に入ったらベートーベンの目が動いたとか、そんな噂が囁かれたりもした。耳が聞こえないのに音楽をやっていたという話も、ふつうじゃない気がして怖かった。

そうなのだ。あの肖像画はどれもこれも怖いのだ。モーツァルトは目が飛び出していたし、
Mozart

チャイコフスキーはほとんど髭で顔が隠れていて熊みたいだったし、シベリウスは三白眼でゾンビのようだった。
Sibelius_j

丸い眼鏡をかけた滝廉太郎は、病弱で、薄幸そうで、見ていると、こっちまで暗い気持ちになった。
Taki

親近感がもてたのは、ロッシーニとフォスターくらいだった。ロッシーニはほっぺたがふくらんでいて、肖像画のなかで唯一、笑みのようなものを浮かべていた。
Rossini

頬杖をついたフォスターはハンサムで、やさしいお兄さんのようだった。
Foster02a

しかし、そのほかの作曲家はひげもじゃだったり、いかめしい顔をしていたりして、快活な日本の小学生の日常からすると、理解不能な異形の者たちにしか見えなかった。

考えてみれば、あんな肖像画セットが飾ってあるのは音楽室だけである。美術教室に、セザンヌやピカソの肖像画セットなどないし、理科教室にニュートンやガリレオの肖像画があるわけでもない。音楽室だけが異色なのだ。

いわば音楽室は学校という空間における異界なのだ。だから、そこには怪談も生まれる(ベートーベンの目が動いたとか、ピアノの鍵盤に血が付いていたとか)。音楽の先生がよくヒステリーを起こすのも、異界のメッセージを伝えるシャーマンの資質があるからかもしれない。あの肖像画セットにしても、たんに飾られているというより、神々として祀られているのかもしれない。

後年、好きでクラシックを聴くようになってからも、音楽室の記憶は自分に濃い影を落としている。ベートーベンの交響曲など聴いていると、つい頭をかきむしり、口をへの字に結んで、前方をカッと睨みつけてしまう。無意識にベートーベンの肖像画のようなポーズをしているのだ。見かけだけベートーベンが憑依してしまうのである。

また、フォスターを聴いていると、なんとなく頬杖をつきたくなるし、バッハを聴くとモップをかぶりたくなる(これはウソ)。それはそれで音楽を身をもって体験していることになるのかもしれないが、電車の中でウォークマンなどで聴いているときは、ちょっと困る。とくに前の席にやくざが座っているときなど、ベートーベンは聴けない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

*名曲を殺すな!

耳に残るといえば、CMソングも最たるものである。しかし、これについてはもうなにもいうまい。宣伝という目的がある以上、印象に残りやすい旋律を使うのは、しかたないと思う。

しかし、どうしても許せないCMの音楽の使い方がある。それはクラシックの名曲を安易に採用することだ。たとえば、ショパンの前奏曲第7番。こう書いても、ぴんとくる人はあまりいないだろう。しかし、太田胃散の曲といえば、ほとんどのひとが、おお、あれかと思い出すだろう。

ぼくもずっとあの曲は太田胃散の曲だと思っていた。ところが、学生時代、ショパンのピアノ曲のレコードを聴いていたら、なんと途中で太田胃散のCMが入ってきたのでびっくりした。そのとき初めて、この曲のオリジナルがショパンだと知った。

けれども、それからというもの、もうショパンの前奏曲集は聴けなくなった。聴くことがあっても、7曲目はスキップする。太田胃散とのイメージの結びつきがあまりに強固すぎて、純粋な音楽的な美しさを味わうことが不可能になってしまった。どうやって聞いても、太田胃散のCMにしか聞こえないのだ。

しかし最近、もっとも腹が立ったのは、スタッフサービスのCMだ。あの「おーじんじ、おーじんじ」というやつである。よりによって、あんなばかばかしいCMに、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを使っている。

この曲の第一楽章は、青春の悲痛さを、このうえなく美しく情熱的に歌いあげた傑作だ。個人的な思い出もあって、自分でもめったに聴かずに大切にしていた曲だった。

ところが、なんてことだ。あのCMを見て以来、脳裏に浮かぶのは、はかなくも美しい青春の思い出ではなく、バニーガールの恰好をしたオヤジたちの姿になってしまった。ものすごく悲しい。これは許しがたい犯罪だと思う。

あのCMを見てしまった人は、もはや新鮮な気持ちで、あの曲を聞くことはできないのではないか。あのCMによって、ぼくのなかでチャイコフスキーの弦楽セレナーデは完全に死んでしまった。

 

*後記

スタッフサービスのCMはあいかわらず弦楽セレナーデである。しかし、その後もあまりにもいろんなパターンのCMがつくられたので、いつも特定の場面が思い浮かぶということはなくなった。

それでもこの曲を茶化した罪は重いぞ、スタッフサービス! サンクトペテルブルグにあるチャイコフスキーの墓に詣でて、きちんとあやまりなさい。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

CD | かっぱくんとあひるさん | 旅行 | 旧館2002 | | 楽器 | 雑記 | | 音楽