旅行

コンゴ河のハンフリー・ボガート

久しぶりの更新。いまコンゴ河旅の本の原稿を書いていて、関連する資料をあれこれ読んでいる。それで知った思いがけない話。


コンゴ河の旅の起点となった上流のキサンガニの町へ着いた日、河沿いでたまたま見かけたバーで、旅のパートナーのシンゴ君とビールを飲んだ。下がそのときの写真。ぼくたちがどうこうというわけではなく、注目してほしいのは、背後に映っている古めかしい建物だ。左の青いペンキの塗られている建物がバーで、右側に三階建てのレンガ造りの半ば廃虚と化した建物が見えている。

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photo: Shingo Takamura

じつはこの建物はベルギー植民地時代の高級ホテルだったことを、最近知った。その名も「ホテル・プルクワパ」(Hôtel Pourquoi Pas?)。プルクワパとは英語だと「Why not ?」 の意。「いいにきまってるさホテル」といったところか。。。現在バーになっている青いペンキの塗られた部分は、このホテルのレストランだったらしい。


まあ、それだけならよくある話だが、それだけではない。1951年、当時スタンレーヴィルと呼ばれていたこのキサンガニにアメリカから映画の撮影隊がやってきた。映画のタイトルは『アフリカの女王』。主演はなんとハンフリー・ボガートとキャサリン・ヘップバーンという、当時をときめく大スターだった。そのとき、彼らが泊まったのが、ぼくたちの背後にある、このレンガ造りの建物だったのだ。


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『アフリカの女王』の撮影がコンゴで行われたことは聞いていたが、まさか主演俳優、それも世界的な大スターが泊まっていたホテル跡に、自分たちがたまたま来ていたとは知らなかった。キャサリン・ヘップバーンは晩年、この映画の撮影をめぐる回想記『「アフリカの女王」とわたし』という本を書いているのだが、その中でこの建物をつぎのように描写している。


「ホテルは二つの部分からできている。飲んだり食べたりする部分と眠る部分。後者は三階建てになっていて外階段付き。わたしのあてがわれた部屋は通りに面した一階にあった。光の入らない陰気な部屋で、通りすがりの人たちがいくらでも中をのぞき込める。それに引きかえボガート夫妻は。きれいなポーチのついた最上階の部屋を占領している。ポーチからは河を見おろすこともできる」


この「三階建てになっていて外階段付き」の建物が写真の奥に写っている建物で、「飲んだり食べたりする部分」が、写真の左側の青く塗られた建物、つまり今のバーである。ホテル部分はいまはホテルとして使われてはいない。いまはなにに使われているのかは、わからない。たしかなことは、ハンフリー・ボガートはあの三階のテラスで奥さんのローレン・バコールといっしょにタバコをくゆらせながら、コンゴ河に沈む夕日を眺めたにちがいないことだ。あのときそれを知っていたら行ってみて、テラスでタバコを吸わせてもらったのに(タバコは吸えないんだけど)。。。

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バーの前庭から見える夕暮れの河


ヘップバーンも一階の部屋を嫌って、その後ハンフリー・ボガートの隣の部屋に泊まっていた映画スタッフを追い出して、そのあとに入ったという。つまり、あの三階の隣同士でキャサリン・ヘップバーンとボギー、ローレン・バコールという、とんでもなく豪華な大スターが並んで泊まっていたのだ。朝にはヘップバーンは外階段を下りて、われわれの後ろにある「飲んだり食べたりする部分」にやってきて「目玉焼きとトーストとコーヒーとパイナップルのスライス」を注文して、自分で外階段をのぼって部屋まで持って帰ったという。「パイナップルのスライスは、単純にすばらしい」と彼女は書いている。あのころもコンゴのパイナップルは絶品だったのだなあ。

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それにしてもベルギー植民地時代のキサンガニはとても洗練された町だったようだ。ヨーロッパ人が多く住んでいたこともあって、アフリカの中央部のこの密林の町には、おしゃれな店がつらなり、ジャングルを開いてつくったゴルフクラブもあったという。もちろん苛酷な気候や自然は、いまも当時も変わりないが、キャサリン・ヘップバーンの回想録を読むと、彼女もボギーもそれをけっこう楽しんでいることがわかる。


高級ホテルとはいえバスタブからはクモやアリをつまみださなければならず、水も蜂蜜のような色をしていたとヘップバーンは書いている。しかし、彼女はこの水が「やわらかくて、肌をしっとりさせる」ことに感激し、しかも「飲めない。歯を磨いてもいけない」といわれていたその水を飲み、「あまい! 天使の指が口の中で踊っている」と歓喜している。肝のすわった女優さんだったのだなあ。


彼女は中洲の村に渡って、槍と木彫りのオールや腰かけを買ったと書いている。昼間は暑くて仕方ないので、部屋で脚本を読んでいたというが、当初彼女に渡された脚本はひどいものだったようで、「この脚本の退屈さは並大抵のものではない・・・なにかとんでもないことが起こって、この映画に出なくてもよいということにならないだろうか」とさえ思っていたという。「まったくだらけていて、何度読んでも居眠りをしてしまう。ほんとうにもう、どうしようもないったらない」とまで書かれている。そんな脚本でもキャサリン・ヘップバーンとハンフリー・ボガートが出演してくれるのか。。。


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そこまでひどい脚本をもとにした『アフリカの女王』という映画はどんなものなのか。そのあとヘップバーンがかなりあれこれ意見をいって、ずいぶん中身が変わったそうだが、見たことがなかったので、見てみることにした。うーん、映画としてはなんというか、河下っているときの食事はどうしていたのかとか、現地人まるで出てこないじゃないかとか、蚊対策はどうしたのかとか、突っ込みどころ満載で、けっこう脱力してしまう作品なのだが、書き割り的なアフリカ人やドイツ人の描き方とか、いろいろ興味深かった。


かんたんにストーリーをいうと、舞台は1914年、第一次大戦前のドイツ領東アフリカ。ロケ地はベルギー領コンゴで、物語はいまのブルンジとかルワンダとかタンザニアとかのあたりなのだ。「アフリカの女王」というのはハンフリー・ボガートが船長をしているオンボロ船の名で、彼はカナダ人でこのあたりで河川を行ったり来たりして商売をしているという設定。『カサブランカ』のダンディすぎる役柄とは対照的に、この映画のハンフリー・ボガートは饒舌で、品がない、酒好きのいいかげんなオヤジ役。それがじつにいい。

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一方、ヘップバーンはメソジスト教会から派遣されたイギリス人宣教師の妹役。堅物で、融通が利かない。ところが赴任地の村で兄が亡くなり、第一次大戦が始まる。ボギーはヘップバーンとともに「アフリカの女王」丸で河を下って、脱出を図る。その間に急流で船が沈没しかけたり、ドイツ軍に狙われたり、スクリューが折れたり、羽虫の大群やヒルに襲われたり、葦におおわれた湿地帯に迷い込んだりというさまざまな試練がある。その過程で恋心が芽生えてという、まあそんなかんじの話だ。それはさておき、この映画が一部をのぞいて、ほとんどがコンゴ河での現地ロケだというのが驚きである。あ、この風景は、とおもうようなシーンが出てくるたびに、さぞかし、撮影はたいへんだっただろうなあと、その苦労がしのばれる。


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『「アフリカの女王」とわたし』によると、河下りのシーンはスタンレーヴィル(キサンガニ)のさらに100キロほど上流のビオンドという河沿いの町で撮られたという。スタンレーヴィル対岸から鉄道に乗り(いまはもう廃線になっている)、そこからジャングルを車で抜け、河をフェリーで渡り、ジャングルの中のロケ地にたどり着き、そこで小屋に滞在しながら撮影を続けた。

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しかし監督のジョン・ヒューストンは象狩りに夢中になって、撮影をしばしばすっぽかす。「頭がどうにかなりそうだった」が、おかげでこの映画のことは「うんとこまかいところまでむおぼえているし、一瞬一瞬の撮影風景やそのとき自分がなにをしていたかということまでありありと目の前に立ち上がってくる」とヘップバーンは書いている。彼女がこの本を書いたのも、撮影から30数年後のことだ。コンゴ河は、ロケで世界中を旅したキャサリン・ヘップバーンにとっても、とりわけ忘れがたい印象を残したのだなあ。それにしても、そのことを知っていたら、もうすこしまともな写真を撮っておくんだったと少し後悔。。。


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好評につき再演決定!「コンゴ・アゲインーー20年ぶりのコンゴ河丸木舟旅」7月20日(土)@ネイキッド・ロフト

大好評だった「コンゴ・アゲインーー20年ぶりのコンゴ河丸木舟旅」トークイベントを7月20日に新宿のネイキッド・ロフトにてふたたび開催します。


20年ぶりに訪れたアフリカ中央部のコンゴ河を、前回と同じく丸木舟などで下ることで見えてきたもの。グローバル化のすすんだこの20年の間にアフリカの真ん中のジャングルの中でなにが変わり、なにが変わらなかったのか。サルやイモムシを食べ、ヤシ酒を飲みながら、とほうなくナンセンスにして過酷な日々のなかで見たものは? 

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横浜のアフリカ開発会議もあって、今年になってアフリカのメディアへの露出が極端に増えた。その反面、判で押したような「援助から投資へ」といううたい文句に違和感をおぼえるひともいるだろう。GDPの伸びやマーケットとしての可能性ばかりが取り沙汰されるアフリカだが、では、いったいそんなアフリカのジャングルをいま旅すると、なにが見えてくるのか。


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レアメタルやダイヤモンドなど豊富な資源と、肥沃で広大な土地に恵まれたアフリカ中央の大国コンゴ(旧ザイール)。20年前、悪名高い独裁者モブツがいた時代に旅したコンゴ河と、グローバルなアフリカブームに沸く現代のコンゴ河。写真と動画をまじえつつ、変化してやまないアフリカのいまについて、硬軟とりまぜつつお話したいと思います。


今回は、旅行エッセイストの森優子さん、プロバックパッカーの片岡恭子さんもまじえたよりダイナミックなトークイベントです。ハピドラム演奏付。前回来られなかった方も、お見逃しなく。
 

【イベント名】 旅人の夜 第23夜 田中真知のコンゴ・アゲイン〜20年ぶりのコンゴ河丸木舟旅〜


【日時】 7月20日(土) OPEN 18:30 / START 19:30


【場所】 新宿ネイキッド・ロフト
地図 http://www.loft-prj.co.jp/naked/map.html

【チャージ】 予約 ¥1500 / 当日 ¥1800(共に別途飲食代)


予約お申し込みは、以下のウェブサイトよりメールでお願いします。

http://www.loft-prj.co.jp/schedule/naked/16303


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トークイベントのお知らせ「コンゴ・アゲインーー20年ぶりのコンゴ河丸木舟旅」(3月30日・31日神楽坂)

いまから20年以上前の1991年、アフリカ中央部を流れるザイール河(現コンゴ河)を妻と2人で丸木舟を漕いで1ヵ月あまりかけて下った。それはその過酷さ、強烈さという点で自分にとって、もっとも印象深い旅のひとつだった。

去年の春、ものすごく久しぶりにその旅についてトークイベントをしたのだが、その後、いまコンゴ河はどうなっているのか、と気になりはじめた。そんな折、仕事でアフリカへ行くことになった。行き先はマダガスカルとケニアだったが、どうせケニアまで行くなら、コンゴにも行けないかな思って、いろいろ調べるうちに、ほんとうにコンゴへ行きたくなってきた。

とはいえ、現在のコンゴはアフリカでも指折りの治安の悪い国で、報道や情報からするととても旅行できるような状況には思えなかった。それでも首都のキンシャサを再訪して、かつての記憶をよすがに、いまとの比較をしたりするのはおもしろそうだ、と思った。

去年の9月に日本を出て、マダガスカルとケニアの仕事を終えたあと、コンゴに飛んだ。ところが、いろいろ偶然が重なって、キンシャサからコンゴ河の上流のキサンガニまで飛ぶことになった。そこからまた偶然が重なり、思いがけず前回と同じように丸木舟を漕ぎ、さらに大きな船や小さな船を乗り継いで、結果的に1ヵ月半くらいかけてコンゴ河を下る大がかりな旅になってしまった。

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率直にいって、ものすごくキツかった。前の旅もたいへんだったけれど、それから20年分歳もとったし、体力も、こらえ性もなくなった身にとって、それは肉体的にも精神的にも、ただごとではないキツさだった。マラリアにはならなかったものの、昼はとんでもなく暑いし、風呂には一ヵ月以上入れず、一日一食ないし一食半の食事で、矛盾と不条理の波状攻撃に耐えながらの旅は掛け値なしにハードだった。

ただ、今回の旅にはパートナーがいた。コンゴに一年以上滞在していて、慶応SFCのプロジェクトでキンシャサの教員大学でコンゴ人学生に日本語を教えている20代後半のシンゴ君。彼はリンガラ語がしゃべれて、コミュニケーション能力も異様に高い。彼のおかげで警察や役人と戦う上で、ずいぶん助けられた。そうやってキサンガニからキンシャサまで1700キロをぶじ下ることができた。そこで見えたのは、おそらく報道などで触れるのとはかなりちがったコンゴだったと思う。

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で、その今回のコンゴ河の旅について、またトークイベントをします。フェイスブックで数日前に告知をしたところ、すでにかなり予約が入り、あまり席にゆとりがありません(すみません)。ご希望の方はお早めの予約をお願いします。下記が案内です↓

http://www.ryokojin.co.jp/3f/index.html

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「コンゴ・アゲインーー20年ぶりのコンゴ河丸木舟旅」

1991年の丸木舟ザイール河下りから約20年。2度とすることはあるまいと思っていた丸木舟による河下りを昨年秋思いがけずふたたびしてしまった。

グローバル化のすすんだこの20年、アフリカ中央部のジャングルの中でなにが変わり、なにか変わらなかったのか。前回は食べられなかったサルやイモムシを食べつつ、とほうなくナンセンスにして過酷な日々のなかで見たものはなんだったのか。

空の底が抜けたかのような雨、霧に浮かぶ中洲の村、役人たちとの終わりなき戦い、サルの料理、「ふれあい街歩き?」コンゴ編など写真や動画を交えつつ、コンゴ河の旅から世界や日本のなにが見えてきたかなどもふくめ、硬軟とりまぜつつお話したいと思います。

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トークは5時開始の予定ですが、会場は午後1時から開いていてコンゴの仮面の半日無料展覧会をやります。ハピドラム演奏、アフリカのちょっとした物即売会(協賛・あひる商会)もあります。

出演・田中真知
場所・アユミギャラリー高橋ビルB2(東京メトロ東西線神楽坂駅より徒歩1分)
http://www.ayumi-g.com/image/accessmap.jpg
日時・3月30日(土)

    3月31日(日)

トークは両日とも午後4時半開場 午後5時開始だいたい2時間くらい。会場は午後2時から4時半まで無料開放で仮面の展示あり(31日は午後1時から)。
トークイベントチャージ・1500円(学生1000円)ワンドリンク付き

(※ 31日は満席になりました。30日(土曜日)のトークは予約受け付けております。よろしくお願いします。 3/13記)

ご予約メールはこちら↓
bozenkun@hotmail.com (hotmailに不具合があったときは gmail のほうにお願いします。 bozenkun@gmail.com)

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キンシャサでコンゴ本を読む

キンシャサでのフランコフォン会議期間中、外は兵士と警察だらけで自由に外出できないので、持ってきた本や、いま寝泊まりさせてもらっているところにあったコンゴ関係の本を読んでいた。日本ではなかなか読めないのに、ここキンシャサだと地の利(?)もあって面白いように読める。フェイスブック用のちょっとしたメモ書きのつもりで書き始めたのだが、思いのほか長くなってしまったのでブログにも載せます。

 
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Tim Butcherの 'Blood River' は 日本で取り寄せ、こっちで読むためにとっておいたものだが、2004年にイギリスのジャーナリストがコンゴ川の源流から河口までスタンレーのたどった跡を旅した記録。モブツ以後の唯一のコンゴ紀行でおもしろかった。歴史の記述が長いのがかったるいのと、白人によくある大げさな描写がなんだかなあ、という感じだが、2004年という不安定な時期に丸木舟と船とバイクでよくこんな無謀な旅をしたものだとあきれ感心。その数年前にはキサンガニなんて虐殺された死体で川が赤く染まっていたというのに。
 
 
ただ、けっこうインチキもしていて飛行機は乗っていないけれど(ぼくの勘違い。ンバンダカからキンシャサは飛行機で移動している)、国連の無寄港の船でキサンガニからンバンダカまで行ってしまうなんて、コンゴ川のいちばんいいところをなにも見ていないではないか。そういうところを歴史の叙述でごまかしてしまうのはずるい。丸木舟だって自分で漕いでいないし、村の生活シーンとかがすっかり欠落している。そういうことは目的ではなかったのだろうけれど。一方でキサンガニで1964年のコンゴ動乱を体験した司祭に会って話を聞くくだりなどは息をのむ。教会にはそのときに殺された教会関係者や信徒の肖像画がいまなお飾られているという。ちなみに、この著者がキサンガニで遭ったOggieという漁師は、90年代半ばにザイール河を下った謙ちゃんや尾崎さんが丸木舟を買ったオギーと同一人物なのではないか、という気がしている。

 
 

左のThierry MichelのDVD2本は日本で観たことがある。Mobutu, Roi de Zaire(モブツ、ザイールの王)はモブツの生涯のドキュメント。たしか写真美術館で観た。モブツがドイツ人技師を雇ってジャングルを見下ろす丘の上でロケットの打ち上げを見物するシーンには驚いた。モブツはロケット開発までしていたのか。案の定というか、ロケットはモブツの目の前でみごとに墜落し、モブツは「打ち上げの角度に問題があったようだな」とかつぶやき、技師はちょっとどぎまぎしながら「そうですね」と相づちを打つのだが、そのあとこのドイツ人技師がどうなったのか気になるところだ。
 
  
Congo Riverのほうは、何年か前にたしかNHK-BSで見た。2006年のドキュメントで、とても面白かった。密林の中にモブツがつくったバドリテの宮殿も出てきていたと記憶する。中国庭園なんかをジャングルの真ん中に作り、専用の滑走路をつくって、コンコルドで各国の政府関係者を招いていたという。でも、いちばん印象に残っている場面はキンシャサだったかの教会の説教師が、おおぜいの聴衆を前に「お金をたくさん払えば天国へ行けます、さあお布施しましょう」といって歌うとこ。


 
 


レドモンド・オハンロンの「コンゴ・ジャーニー」はカズオ・イシグロが絶賛して、日本でも池澤夏樹や養老孟司といった文化人・知識人がこぞって賞賛していたのでかえって読む気になれず手を出さなかったので、ここで初めて読んだが、これがどうして日本で話題になったのかよくわからない。一冊2300円で2巻本である。本当に売れたのか? 内容は面白くないわけではない。でも日本の一般読者が楽しめるような内容とは思えない。コンゴやアフリカのことをなにも知らずに読んで、これが面白いと思えるだろうか。軽く読み流せるような娯楽性とはほどとおく、どこまでもこってりとして、それこそ密林に迷い込むかのように濃密すぎる内容である。。。
 
 
ここに出てくるマルセラン博士というコンゴの役人は高野秀行さんの「幻獣ムベンベを追え」にも出てくるそうで(未読。このあと読みます)、文中にも88年に日本の探検隊がのこした変な柄のTシャツのことにふれられている。そんな楽しみはあるのだけれど、この明らかにつくりこまれた饒舌な会話にはどうも違和感があるな。スタンレーの頃からそうだけど、白人はこういう大げさなのが好きなんだな。それにしてもみんな本当にこんなにしゃべるか? 呪術師がこんなに思わせぶりなことを滔々としゃべるのか? 事件の起きるタイミングだってよすぎるし。。。
 
 
まあ、そういうことは目をつむって楽しめばいいのだが、楽しむというより読んでいると痒くなってくる本で、後半になるとちょっとつらい。日本でこれ完読したひとどのくらいいるのか。ちなみにこれは旧ザイールではなくコンゴ共和国側の話。時期はたぶん1990年前後のことだろうと訳者が書いていた。コンゴ共和国側にもオナトラみたいなのが運航していたのだな。でも、自賛のつもりはないが、オナトラみたいな船についての記述ならぼくの「アフリカ旅物語」(中南部編)のほうが誇張なしに書かれているように思う。


  
 


草場安子「コンゴという国」はモブツ政権崩壊前後のザイール大使夫人による生活レポート。政府関係者や駐在員の書く生活記録というのは、建て前が多くて、取り澄ましていて、あまり面白くないものが多いのだが、これはちがった。「あきれてものもいえないわ」みたいな素直な感想がストレートに書かれていて、とても面白かった。とはいってもけっして自文化中心的な偏見で書かれているわけではない。ドライで、つきはなしているけれど、その視点はとてもニュートラル。観察力もあるし、じつにこまごまとよく見ている。約束を違えても、うそをつかれても、だまされても、「そんな文化もあるのよ、文化の違いを理解することが国際理解への道よ」みたいなうさんくさい寛容さはみじんもない。

 
 
マタディの町での歓迎レセプションに出席したときのうんざりした様子なども、とてもリアルでいい。「・・・中央の桟敷席に知事を中心にして席を占める。適当に逃げ出したいので、なるべく知事から遠い席にしようと画策する。大きなお面についたバナナの葉がかさかさ、ばさばさ鳴っている。・・・色彩はモノトーンで物悲しい。音楽も単調というのか、リズムだけでメロディがない。・・・腰をふるダンスだがちっとも意味がわからない。ダンスの巧拙もわからない。宴たけなわの途中で抜け出すことばかり考えている。・・・」。引用すべきところはほかにあるのだが、バグダッドで似たようなレセプションに招かれたときにまさに同じような状況を体験していたので笑ってしまった。


 

あと右上のBradtのCongoはこっちにくるまで出ていることを知らなかった。Bradtはロンプラとともに英語のガイドブックとして知られているシリーズだが、ロンプラよりも文化面の記述や、著者の個人的なエピソードの記述が充実しているので、ぼくとしてはロンプラよりも気に入っている。BradtのMadagascar や Ethiopiaは読み物としてもとても面白い。このCongo編は2008年版だが、さすがにたいへんな時期だったこともあってか取材も十分にはできなかったのだろう。歴史の叙述や政情の解説にページが多く割かれていて、現地事情についての記述はそれほど多くない。でも、いまのところコンゴで使えるガイドブックはこれくらいだろう。


 


このほかにもコンゴ関係だとはずせないのが手元にはないがピーター・フォーバスの「コンゴ河」、あとかつてザイールに駐在していた日本人が自費出版で出した「モブツ・セセセコ物語」はいずれもたいへんな名著である。「コンゴ河」はアラン・ムーアヘッドの「白ナイル」「青ナイル」のコンゴ版ともいえるが、ぼくとしてはムーアヘッドよりもフォーバスのほうがドラマチックでとても好きだ。ここでもういちど読みたかったな。
 
 

  
英語で書かれたものはたいして知らないが、10年くらい前に出た「In the Footsteps of Mr.Kurz」はモブツのどうしようもない堕落ぶりを、これでもかというほどレポートした紀行でなかなか面白かった。著者は覚えていない。コンゴ河を舞台としたコンラッドの名作「闇の奥」に出てくるクルツ大佐にモブツをなぞらえているのだが、クルツとモブツは音は似ていても、タイプとしては正反対ではないのか。あと、内容も著者も覚えていないのだが「Facing the Congo」というのも10年くらい前に書かれたザイール紀行だった。

 

あと写真右下のウォルフガング・ロッツ「シャンペン・スパイ」は居候先のシンゴくん(fbでは紹介したが慶応SFCのプロジェクトでキンシャサのコンゴの教員大学の学生に昨年春から日本語を教えている)のおすすめの本で、コンゴとはまったく関係ないが、とても面白かったのでついでに紹介。中身はイスラエルの秘密諜報部(モサド)のスパイとしてナセル政権下のエジプトで暗躍したスパイの回想録。ドイツ人の大金持ちで、馬の育種家という名目で1960年ごろエジプトに入り、エジプトの政府高官や警察幹部、公安のトップなどとも親交を結び、第三次中東戦争でイスラエルによるシナイ半島占領の重要なきっかけをつくった人物の暗躍ぶりと、逮捕、裁判、投獄、釈放にいたるまでがじつに生々しく、しかもユーモアたっぷりに書かれている。

 
 
 
ナセル革命後のユダヤ人の事情や、ナチのエジプトでの位置などが手に取るようにわかり、また当時のエジプトの監獄事情などもわかってすごく面白かった。こんな本があることさえ知らなかった。本人が書いているので脚色はしてあるのだろうが、彼がだましたエジプト人高官の写真も載っていて、おい、だいじょうぶなのかといいたくなる。エジプト好きはぜひ読んでみてください。というか、もうすでに知られているのかな。そういえば数年前、エジプトのアハラーム紙に、モサドが長年追っていた元SSの将校が、カイロの下町で亡くなったという記事を読んだことがある。彼は身分を隠してイスラム教徒としてエジプト人の妻をめとり、息子ももうけ、下町で細々と暮らしていたという。家族は父親の正体をまったく知らなかった。どうして、そんなことがありえたのか、この本を読んでよくわかった。


 
 
ああ、長くなってしまったな。。。ネット環境があまりよくないうえ、ココログが重いのでなかなかアップできません。


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キンシャサで拉致されかける

また間が空いてしまいましたが、9月の頭に日本を出て、マダガスカル、ケニアを経て、いまはコンゴ民主共和国のキンシャサにいます。フェイスブックでは、あひるさんとかっぱくんもまじえてちょくちょく報告を書いているのだけど、こちらはご無沙汰になってしまった。順序が前後するけれど、まずは20年ぶりのキンシャサのことから。


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キンシャサでは、まず外を歩いている外国人を見ない。治安上の理由から各大使館は自国民に対して、「外出時はかならず車を使うように」という通達を出している。だから1000万を超える大都市で、しかも中国をはじめ、さまざまな外国人が暮らしているはずなのに外国人の姿を見ることはない。旅行者の姿もない。



乗り合いバスやタクシーなどの交通機関はあるが、カイロのようにこつがつかめれば乗れるという感じではない。乗っている外国人もまったく見ない。拉致されたりという危険があることから、これらも使ってはならないということになっている。つまり自分の車のない外国人は外へ出ることすらできない、という異常な状況なのである。


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でも、ほんとうにそれほど治安が悪いのか。こちらに暮らしている方の話では昨年の選挙以降、落ち着いてきていて、それまでの殺伐とした雰囲気も薄れているという。悪名高いキンシャサの空港でも意外なほど入国手続きはスムースだった。ひとびとの顔つきも予想していたような荒んだ感じではなく、なんとなくではあるが、ほっとしたような落ち着きが感じられる気もした。

 
 


やはり自分の足で歩かないと街の感触はつかめない。そこで日中の大通りなら大丈夫かな、と思ってち散歩してみることにした。地図と小銭と携帯とカメラだけ持って片道3車線の大きな通りにそった舗道をサングラスをかけ、帽子をかぶって歩いた。人通りもある。たまに「ヒーホー」(ニーハオの訛り)とすれちがいざまに声をかけていくやつがいるくらいで、あとは適度に無関心をよそおう。


 
 

半時間ほど歩いてこれなら大丈夫かなと思っていたところ、一台の白い車がわきに停まって「警察だ、パスポートを見せろ」という。どう見ても警察車両には見えないぼろ車の中に、見るからに人相の悪い大柄な黒人が4人。助手席の男が降りてきて「パスポート」とくりかえす。「わたしは悪いひとです」と顔にはっきり書いてあるような男だった。

 
 


まずいのはパスポートを置いてきたことだった。コピーだけでも持っておくべきだった。そこで「いまは持っていない、置いてきた」というと、男は「それならおまえの家に行って確かめる。乗れ」といって後部ドアを開けた。中から一人降りてきて、ぼくをそこに押し込めようとする。男は手に警察手帳と手錠をちらつかせるが、それが本物であろうとなかろうと、これで乗ったらどうなるかはだいたいわかるさ。


 
 
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「大使館に控えがあるのですぐに確認できるから」といって携帯で大使館に連絡をとろうとすると、「切れ」といわれる。「これはおまえの大使館の仕事ではない、おまえはパスポートをもっていない、だから、おまえのパスポートとビザを確認するのが、おれたちの仕事だ、大使館には車で連れていく、乗れ」となおも強い調子でいう。

 
 


こっちにはパスポート不携帯という負い目がある。下手に反抗するのはまずい。でも車に乗るのはもっとまずい。こちらが「車には乗れない」というと、「わたしは悪いひとです」と顔に書いている男は「俺を怒らせるな」という。さらに「この国はたくさん問題を抱えている。だからこうして警戒を厳重にしているんだ・・・」という。


 
 

おっ、これはつかえそうだと思い、そこで、たくさんの問題とは何ですか、と逆に質問する。男は無表情に、キブ州での紛争や、テロリストの問題だ、といったようなことをいう。そこで「私がテロリストだというのですか?」と聞く。「テロリストはこんなところをひとりで歩いていませんよ。私は悪い人間ではありません。あなたと同じくいい人間です。でも、あなたのほうがいい人間だ、なぜなら、あなたはこの国の治安を守るという立派な仕事をしている。あなたのような人間を尊敬する。コンゴ人はすばらしい。。。」などと自分でもやれやれと思いつつ話をだらだら長引かせる。その一方で、「私は大使館で××時に大使に会う約束があるので、私が行かないと心配されていると思う」などと牽制しつつ相手の反応を見る。男はいらだっているようだったが、こちらから批判めいたことはなにもいっていないので、とまどっていた。


 
 
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相手がナイフや銃のような武器をとり出したら終わりだが、手錠以外には相手はなにもとり出さなかった。真っ昼間なので人目もある。とはいえ、エジプトのようにまわりが干渉してきて見方になってくれそうな雰囲気はない。得体のしれない中国人がどうなろうと知ったことじゃない。むしろかかわりになりたくない、という空気が伝わってくるので、とりあえずだらだら話を長引かせて20分くらいそんなふうにしていたら、不意に相手が車に戻って、ドアを閉め、空いた窓からふりむかずに手を振ってそのまま車を発進させた。遠ざかる車を見ていたときに、にわかにひざの力がぬけた。難を逃れることができたのだ。。。


 
 

もし、これで車に乗ってしまうとどうなるのか。聞くところによると同様の事件はキンシャサでは頻発していて、乗ってしまった日本人もいるという。そのひとは携帯からお金から、そのとき持っていたものはすべて奪われて、解放されたという。命までとられることはないらしい。


 
 
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ほかのケースとしては書類に不備はないにもかかわらず、警察や入国係官に金銭を要求され、それを拒むと留置場へ入れられてしまったというのもある。10ドルだかそこらのお金(多くとも50ドルくらい)を払ってしまえば、一時的にいやな思いをするだけで通過できるのに、それを拒んだばかりに不衛生な留置場に何日も収監され、病気になってしまったというケースもある。


 
 

本人が他の収監者の携帯でなんとか大使館に連絡をとったものの、それを知った係官が大使館が介入するとまずいということで、正式なビザをもっている旅行者を強制退去させてしまった例もある。理由のない金は払いたくないのはやまやまだけれど、時と場合に応じては10ドルないし50ドルくらいを払ったほうがスムースにいくこともある。大使館にも迷惑がかからない。なるべくけちらないほうがリスクは減る。

 

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ぼくに声をかけた自称・警官が本当の警官だったのかどうかはわからない。少なくとも警察証は本物に見えたし、フランス語だけでなく英語も話せたので教育もそこそこある元警官だったのかもしれない。けれども公務員への給料の不払いによる暴動がなんども起きているこの国では、生きていくために本物の警官だって悪事に手を出すことはふしぎなことではない。だれだって悪いことをしたくて悪いことをしているわけではない。悪いことをしないと生き延びられないから悪いことをせざるをえない。この国にはいま中国を中心として大規模な投資がなされ、建設ラッシュで経済成長率もあがっているが、悪いことをしないと生きられない人たちの数がいぜんとしてたくさんいる社会を「成長している」などとは呼びたくない。



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偶然のザイール河&トークイベントのお知らせ

先日、といってももうひと月以上前だが、アフリカを専門にしている旅行会社「道祖神」が発行している「Do Do World News」という雑誌に、ザイール河(現コンゴ河)の旅のことを「偶然のザイール河」と題して書いた。ザイール河はアフリカ中央部の密林地帯を流れる大河で、アマゾン河に次ぐ流域量を誇る。20年くらい前、この河を妻と二人で1ヵ月くらい丸木舟を漕いで旅したことがある。
 

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その旅のくわしいことは以前『アフリカ旅物語』という本の中でも書いたが、そのときには意識していなかったエピソードなども思い出して書いた。ここで紹介しようと思っていたら、例によってぐずぐずしているうちに、読んでくださった方が感想を書いてくださったブログがあることを教えられた。ありがとうございます。

 
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Do Do World Newsはフリーペーパーだが、毎回アフリカの文化をめぐるディープな話題が取り上げられている。以前は、アフリカの現代文化や音楽の研究者の白石顕二さんが亡くなるまで編集長を務めていらした。アフリカや南アジアをフィールドにされている写真家・作家の船尾修さんの連載も載っていて読み応えがある。本屋には置いていない(たぶん)のだが、「道祖神」に連絡すれば手に入るはずである。
 

ところで、写真を使うので久しぶりに河下りのときの写真をフイルムスキャナでスキャンした。スキャナーは買ったものの、スキャン作業はほとんどやっていなかったので今回初めてスキャンした写真も多かった。モニターで画像を拡大してみると、いままで気づかなかったものが映っているものもあって、急激になつかしさがこみ上げてきた。

 
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ザイール河を旅したのはモブツ政権の末期で、首都キンシャサの治安はきな臭く、インフレはきわみに達し、ザイール通貨の価値は毎日、下落していた。河の上にいたぼくたちは治安の問題を感じることはなかった。ただ、船の上で商売をする商人たちが、手に入れた現金をすぐさま別の物資に変え、手もとに残そうとしないことに驚かされた。現金はトランプのババのようなもので、引いてしまったら、すぐに手放さないと無価値になる。貨幣経済でありながら、実質的にはバーターのようなものだった。


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当時、モブツ大統領はほとんどキンシャサにはいなかったらしい。モブツといっても、いまとなっては知る人も少ないかもしれないが、世界最低の独裁者のひとりともいわれていて、その濫費ぶりは常軌を逸していた。40億ドルにのぼるといわれた国の対外債務の額がモブツが不正に貯めた個人資産の額とほぼ同額だったといわれ、1978年の推定ではイランのシャーにつぐ世界第2位の富豪だった。
 

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だが、政敵を容赦なく抹殺し、国に底知れない混沌をもたらしたモブツへの反発は1990年代になると激しくなり、モブツはザイール河を走る高速大統領船の上か、上流の生まれ故郷の町の郊外につくった広大な宮殿にこもるようになっていた。

 
 
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ザイール河を丸木舟で下っていたとき、偶然この大統領船とすれちがったことがある(下の写真)。昼下がり、のんびり舟を漕いでいたら、川岸にいた村人たちが、早くあがれ、といって手招きしている。理由もわからずに接岸して、岸に上がるとまもなく白波を蹴立てながら密林の大河にはいかにも不釣り合いな4階建ての豪華船が忽然と姿を現した。そのとき本当にモブツが乗っていたかどうかはわからないが、村人たちはぼくたちと入れ替わりにサルやらシカやらを積み込んだ丸木舟に飛び乗ると、船で売りさばくべく、いっせいに大統領船をめざした。

 
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船の上でなければ、モブツがこもっていたのは母の生まれ故郷だったバドリテという小村だった。そこは密林の中の、ほんの小さな村だったのだが、モブツはここにヴェルサイユ宮殿さながらの巨大な宮殿を建てた。イタリアから取り寄せた大理石で一族のための地下聖堂をつくり、数々の部屋はフランスの骨董品やヴェネチアガラスなどで飾られ、敷地には巨大な中国庭園やプールがつくられた。さらに村の郊外に国際空港なみの滑走路がつくられ、モブツはこの個人空港(!)からコンコルド(モブツはコンコルドが好きだった)に乗って外遊に出かけ、また各国の要人をここへ招いた。このバドリテのそばのカウェレの村にも同様の宮殿を建てている。


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そうした宮殿も、モブツが1997年にモロッコへ亡命して以来、放棄され、いまではすっかり廃墟と化している。ここなどで写真も見られるが、いったいどこなのか錯覚してしまいそうな、なんともいえないシュールな光景だ。もっとも、下の写真も、いま見るとシュールだな。。。

 
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ところで、2012年4月7日(土)~4月22日(日)まで、神楽坂の光鱗亭ギャラリーというところで、「旅行人文化祭―プラネットアパート別館」という展覧会+イベントが行われます。各週末にトークイベントが行われることになっていて、私も4月21日(土)17:00~にやることになりました。強制的にハピドラムの演奏&Do Do World News進呈付です。よろしければどうぞお越しください。


田中真知「ザイール河秘話」
  4月21日(土)17:00~
  チャージ1200円(1ドリンク付き)
  アフリカの旅トークと本人によるハピドラムの生演奏。
  

詳細はこちら↓

http://www.kagurazaka-kourintei.com/?p=1601

http://www.ryokojin.co.jp/3f/ryokojinbunkasai.pdf


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軽井沢で辻邦生展を見る

軽井沢高原文庫で開催されている「辻邦生展 豊饒なロマンの世界」(11月3日まで)を見るために、秋の軽井沢を訪れた。高速をおりてしばらくすると、道路標示に「風越」と書かれていた。辻さんの短編小説に「風越峠にて」というのがある。久しぶりに辻さんの世界にやってきたと思った。

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学生時代、辻さんの小説を読んで衝撃を受け、仕事にかこつけてファンレターを出した。それがきっかけで手紙のやりとりをするようになり、当時、辻さんが勤めておられた学習院大学の研究室に遊びに行くようになった。辻さんは、明るくて、天真爛漫な方だった。ものすごく多忙なはずだったのに、ぼくのような勝手な一ファンが押しかけても、いつも楽しそうに話を聞いてくれたり、親身になって相談に乗ってくれたりした。(その頃の思い出については、10年前、辻さんが亡くなったときに書いた追悼文「辻邦生さんへの最後の手紙」にも記したので、読んだことのある方もいるかもしれませんが、よかったら読んでください。pdfファイルです)。


辻さんが一貫して表現しようとしてきたのは、死や滅びといった無常の中におかれた人間が、いかにして生を肯定しうるかということだった。ぼくは、彼の小説に描かれるさまざまな人物--ユリアヌスだったり、ボッティチェリであったり、信長であったり、ランボーであったり、西行であったり--をとおして、生というものの不思議さ、存在することのおどろきに目を開かされ、本を読み終えたあとは、いつも、自分が生まれ変わったような気持ちにさせられたものだった。

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辻さんが亡くなってから、ぼくは彼の小説になかなか手を出せずにいた。生前に書かれたエッセイや評論をまとめたものが出たり、新たに文庫が出たりすると買ってはいたものの、そのページを開くのはなぜか勇気がいった。それが、なぜなのか、自分でもよくわからなかった。そして気がつくと、辻さんが見つめていた世界から、自分がずいぶん遠ざかってしまったような気がして、空虚な思いにとらわれるのだった。


高原文庫には、辻さんの直筆の手紙、生原稿、創作メモや手記、スケッチなどが展示されていた。辻さんは創作の過程を記したそうした日記や手記を作品といっしょに発表しているので、展示されていた文章には見覚えのあるものも多かった。

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注:これは展示されていたものではありません


初めて見るものもあった。印象的だったのは、小学三年生のときに書かれた「春の景色」という作文だった。筋立てがあるわけでもなく、いわゆる、そつのない優等生らしい作文ではない。それは通学途中の電車の窓から見えた春の風景を、淡々と、ひたすら言葉にうつしかえたものだった。
 

「・・・右がわの林の中にも、ところどころに桜がさいていた。また、かたまっていっぱいさいている所もあった、なかなか面白く、色々の、形に見えている、ねこのような形にも見える、代々木駅の方にきんぎょのようになったのがあった、電車は、どんどん走った・・・左の方を見ると、富士山やそのほか色々の山々が銀のあたまを上にだし、たかくたかくそびえている・・・屋根の裏も、林の裏も桜でいっぱいである・・・」
 

ここからは通り過ぎていく桜や山々に陶然として魅入られている男の子の姿が浮かんでくる。目の前の風景を言葉にすることで、自分がその美しさと一つになってしまいたい。そんな官能的な惑溺がここにはある。


だが、それこそのちの小説家、辻邦生にほかならなかった。日が昇り、鳥がうたい、花が咲き、星がまたたく。そんなシンプルな日々のいとなみへの愛おしさこそ、辻さんの作品世界のいちばん根っこにあったもののように思う。途方もない悲劇や虚無の中にあってさえ、地上にあることの喜びがあれば、この生は生きるに値するものになる。少年の日の作文の中にも、そんな辻さんの美への惑溺があったことに、なるほどなあと思った。


辻さんの肉筆原稿にかこまれた高原文庫の空間は、とて心地よく、いつまでも、その中にたゆたっていたかった。原稿に目を落とすたびに、その本を読んだときのことや、辻さんと話したときのことなどが、ありありと思い出された。長いこと、読み返せなかった辻さんの小説に、もういちど向き合ってみようと思った。まずは、ぼろぼろになるまで読んだ『モンマルトル日記』を読み直そうか、それとも年に一度は読んでいたユリアヌスにしようか。それとも軽井沢に来たのだから、有島武郎の出てくる未読の『樹の声 海の声』にしようか。砂漠を旅しながら、数え切れないほどくりかえし読んだ短編「献身」や「円形劇場から」も読みかえしたい。

こんなことを書いても辻邦生さんの作品を読んだことがない方には、ちんぷんかんぷんかもしれない。でも、そんな人たちは、これからあの辻作品の素晴らしい世界に出会えるという、願ってもない僥倖を与えられている。好みは人それぞれだけど、ぼくの書いた本を読んでくれて、すこしはいいなと思ってくれた人なら、辻さんの本は、きっと気に入ってもらえると思う。歴史物が好きなら、司馬遼太郎さんや塩野七生さんの書くものと辻さんの書くものが、どんなふうにちがうのか、興味深く読んでもらえるだろう。これから、ここでも辻さんの思い出や、彼の作品について折にふれて書いていきたい。


高原文庫を出るとき、受け付けにあった展覧会のための小冊子を買った。ぱらぱらと広げると、堀江敏幸さんが寄せた文章の冒頭に「ぼくらはね、だれもが辻邦生になりたかったんですよ」という言葉が飛び込んできた。ああ、そうだ、そのとおりだよなあと思う。自分の中に荒々しいデモーニッシュなものを抱えながらも、その価値観で他人や社会をけっして裁いたりはしない。人間というものがいかに信用のおけない、救いがたい存在であるかは十分認めたうえで、そんな人びとの途方もないいとなみを肯定していくまなざしをもつ。そう、そんなことはだれにもできない。だから、だれひとり辻邦生にはなれなかった。

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翌朝、辻さんがよく散歩していたはずの山の中を歩いた。落ち葉を踏みしめながら歩いていると、上から吹き下ろしてきた一陣の風が、斜面の木々を揺らしながら、下に向けて吹きすぎていった。目に見えない風の精が林の中をかけぬけていったかのようだった。辻さんは最晩年、水村美苗さんとの往復書簡集『手紙、栞を添えて』のあとがきの中で、軽井沢の山で見た「風のトンネル」について書いている。あるいは、これがそうなのかもしれなかった。


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日本海でヨットを見る

夏が終わって、すっかり秋です。また、季刊ブログになっていました。毎度のことで、申し訳ありません。更新しないと罰金という方法もあまり功を奏さない。身辺雑記は苦手だし、なにかテーマをと思うと、それが心の負担になるのかも、といってもいいわけにはならないなあ。これからは身辺雑記でもなんでもいいので、短くても、こまめになんか書くようにします、といっても説得力ないなあ。。。


ともあれ、久々の更新。この前、縁があって新潟で初めて国体というのを見た。見たといってもヨット競技だけである。しかし、ヨットレースというのは、なかなか素人目にはわかりにくく、陸上競技などを見るときのような観客側の盛り上がりに欠けるのだ。

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ヨット競技も、基本的に競争である。洋上に設けられたブイを決められたルートでまわり、一番速くゴールした者が一着となる。そこまでは、陸上競技とか、スキーとかと同じだ。けれども、レースが行われるのはかなり沖合(1キロ以上)なので、陸地からは、なにが起こっているのかほとんどわからない。


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だいたい、いつスタートしたのかもよくかわらない。スキーや陸上とちがって海の上にはスタートラインが引けない。しかも潮の流れや風や波があるため、ヨットは一カ所にとどまっていられない。そこでスタート地点の周辺をぐるぐるまわりながら、スタートの合図があるまで待機している。風がないと何十分もぐるぐるしていたり、風向きが変わるとブイの位置を変えてコースを変更することもある。けれども、陸地からだとなにが起こっているか、スタートしたかどうかすらわからない。


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レースが始まっても、ヨット同士の区別がつかない。帆にはナンバーが書いてあるので高倍率の双眼鏡でもあれば見分けられなくはないのだが、帆はよく動くし数字は小さいし、向きが変わると隠れてしまう。せめて帆の色を変えるとか、数字を大きくするとか、そういう工夫はできないのか。


ブイとブイの間を行ったり来たりするうちに、どれが一位なんだかビリなんだかもわからなくなってしまう。ゴールしてもそこで停まるわけではなく、そのまま走り続けるので、いつレースが終わったんだかもよくわからない。あれ、スタートしたのかな、あれ、もう始まっているのかな、あれ終わったのかな、という感じで、なんともカタルシスに欠けるのである(もちろん、慣れてくればちゃんとわかるのだろう)。

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ヨットというのは、外からのイメージと内実とは、かなり異なるらしい。一見すると、海の上で風を受けて、いかにも優雅な紳士的スポーツのようだが、実際にはスタート時には、相手よりもよい場所をとるために、ヨット同士が牽制しあい、洋上に激しく罵声が飛び交うという。レースが始まってからも、相手の艇の風を遮ったり、進路妨害をしたり、逆に相手の反則を招くような行為をして、そのたびに罵詈雑言の嵐になるのだそうだ。陸地からはそんなことはわからないのだけど。


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意外だったのは競技用のヨットには後ろの部分がないのだ。これでは水が入ってくるんじゃないかと思うのだが、前に進んでいれば入ってこないらしい。うーん、不思議な構造だ。強度的には大丈夫なのだろうか。


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運営の手伝いには地元の高校生のアルバイトが大勢動員されていた。そんな高校生たちがプレハブの陰にすわってさぼっていた。ゲームでもしてるのかなと思ってふと見ると、なんと花札をしていた。いまどきの高校生でも花札なんてやるのだなあ。


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海辺沿いの看板にはロシア語が併記されていた。


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新潟の海岸というと、ふと拉致を思い出してしまうが、日本海に沈む夕日はたいそうきれいだった。


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ハルツームのスーパーにて

エジプト、スーダンより帰国。スーダンには暑い季節、酷暑の季節、猛暑の季節、極暑の季節があるといわれ、今回初めて極暑の季節に、この地を訪れた。なにしろ20年ぶりのスーダンなので、あれも見たい、これも見たいと昂揚していたのだけれど、空港を一歩出ると、あまりの暑さに、すべてのやる気が、みるみるしぼんでいくような脱力感におそわれた。


乾燥しているので熱帯雨林のような重たさは感じないが、からだの四方、そして頭上にと、あわせて5台のストーブを背負って歩いている気分だった。それでも現地の人の話では、今年は暑さが厳しくないほうだという。やはりスーダンは暑い季節、せめて酷暑の季節に訪れるべきだ。


20年ぶりということもあって、訪れるにあたってはいろいろ感慨もあった。とくに昔、しばらく滞在して、個人的にとてもいい思い出のあるダルフールが、悲劇的な内紛と殺戮の地として報じられるようになってしまったことへの葛藤もある。だが、今回スーダンにいってみようと発作的に思ったのは、ネット等を通じて得られるヴァーチャルな情報から見えてくるこの国の姿が、自分がなんどか旅し、経験したかつてのスーダンと結びつかなくなってきたことへのいらだちだった。


ヴァーチャルな情報というのは、どこか二次元的だ。自分の中で三次元的に置き換えないと、どうもリアリティが湧かない。それはちょうど地上から星座を見ているのに似ている。地上から見ると隣同士のように見える星同士でも、三次元的に見ると、とても離れているように。情報を立体感をもって感じるには、やはりどこかで身体化というか、歩いたり、嗅いだり、なめたりすることも大切だと思う。

 

で、スーダンだけれど、近年のグローバル化や中国やアラブ諸国の投資マネーのおかげで、首都ハルツームの建設ラッシュぶりは聞いていたが、実際に目にしてやはり驚いた。以前のハルツームはといえば、砂漠の中にうち捨てられた廃墟のような、滅びの街といった印象だったし、商店の棚をのぞいても、がらんとしてなにもなかった。植民地時代につくられた、いかめしい建物はあっても、大きなホテルはヒルトンやメリディアンとあと一つか二つくらいしかなかった。

 


それがナイル川沿いにリビア資本の、湾岸諸国などにありがちな奇抜な形のホテルや、中国語のネオンサインの書かれたホテルなどがたっており、さらに巨大ショッピングモールや、トルコ系の大型スーパーやレストランなどが郊外にぞくぞくつくられている。しかも、高層ビルの多くは、みなそろえたように青いガラス張りである。冷房効率も悪そうだし、砂嵐ですぐにくすんでしまうとおもうのだが、デザインが好みなのだろうか。


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日本や欧米にくらべれば、たいした規模ではないが「AFRA」というトルコ系のショッピングモールにかなり感動した。

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二階建てで中華やイタリアンまで食べられるフードコートもある。マレーシアなど中華系の人が働いている。


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一階はスーパーマーケット。品数は豊富というほどではないし、しゅっちゅう停電するのだけど、それでもハルツームにこんなスーパーができるようになるとは、時代は変わったんだなと感じる。

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なにしろ、iPodだって売っている!

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ただ、よく見ると、ちょっとへんな気もするのだが(クリックで拡大)・・・。

 
 
 
 

これは日本からわざわざ輸入したのだろうか。

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スーダンはアルコール禁止の国のはずだが・・・なにに使うのだろう。


 
 

これはスーダンのオリジナルドリンクらしい。

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粉末で水で溶かして飲むもののようである。バオバブドリンクというのは初めて聞いた。左はアラビアゴムとハイビスカスのミックスドリンク。アラビアゴムというのも不思議な名前だが、どうもアカシアの樹皮からとれる天然のゴムで糖類をふくんでいることから甘味料として使われているらしい。調べてみると、スーダンはアラビアゴムの世界シェアが80パーセントだという。味はというと、買ってきたのだが、まだ飲んでいない。飲んだらご報告します。


これは文房具コーナーにあったスーダン大統領とスーダン国旗の入ったシール。ノートなどに貼って、自分の名前、学校名、クラス名、先生の名前を書くようになっている。買う人はいるのかなと思って、しばらく売り場を見ていたら、ひとりの主婦らしきスーダン人女性が手にとってかなり長い間買おうか買うまいか悩んでいたようだったが、結局、シールを元に戻して行ってしまった。

 
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オバマとベールと黄熱病

取材仕事で2年ぶりにエジプトに来ている。ちょうどオバマ大統領のエジプト訪問直前にエジプト入りしたので、こっちの新聞やテレビでもオバマ関連のニュースが目立った。撮影で大ピラミッドに入ると、オバマがくるのに備えて玄室に電話線を引く工事が行われていた。ピラミッドを訪問する予定とのことだが、いくらなんでもオバマがピラミッド内部の細い通路を腰を曲げて上って、蒸し暑い玄室までやってくるとは考えられない(実際、内部には入らなかった)。


ただ、オバマがカイロ大学で行った演説はエジプト国内ではすごい視聴率だったようで、タクシーの運転手なども、オバマはいいことをいう、と上機嫌だった。オバマの演説はイスラム教徒に呼びかける内容だったそうだが、エジプト国民の一割を占めるコプト教徒についてはなにかいっていたのだろうか。演説の内容をくわしく読んだわけではないのでわからないが。


オバマ来訪に備えてというわけではないだろうが、空港や遺跡の入り口など、いろんな施設が新しくなっているのにはおどろいた。カイロ空港にはメタルフレームにガラス張りの新しいターミナルビルができていた。床は磨き上げられ、スターバックスみたいな、おしゃれなカフェもある。昔の上野駅のような古色蒼然とした、かつての空港の雰囲気も好きだったのだが、時代は変わるのだなあ。いま、これを書いているのだってカイロ市内のマクドナルドである(自分のコンピューターなので、もちろん、ひらがな入力!)。カイロのマクドナルドでは、いまや全店無線ランが通じている(遅いし、不安定だが)。ここの女子大生たちもパソコンを持ち込んでいる。


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街並みの雰囲気はあまり変わったようには見えない。自動車の数がますます増え、以前から手の施しようもなかったカイロの街の渋滞がさらにひどくなった。あっちでプップー、こっちでプップーとクラクションのとぎれる暇がないのも以前と同じだ。


渋滞がひどいので移動には地下鉄を使うことが多い。地下鉄はたしか2000年くらいに開通したはずだが、この国では日本などに比べると物が古びるスピードが10倍くらい速いのではないかと思うほど、車両といい、窓や座席といい、もう50年もたったのではないかと思うほどに、すっかりくたびれている。路線を示したシールははがれ落ちたり、一部読めなくなっていたりするし、プラスチックの座席は黒ずんで、亀裂が入っていたりする。こう見ると、日本の地下鉄や電車はきちんとメンテナンスしているのだなと、あらためて思う。列車がホームに着くと、人が降りる前に乗り込んでくるのは、以前と変わらない。

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あと、2年前との大きなちがいは携帯の普及である。ただの携帯ではなく音楽機能のある端末が普及したのか、車内で携帯で音楽をかけているエジプト人がけっこういる。それもヘッドホンなど使わないで、携帯のスピーカーで堂々と鳴らしている。となり同士でちがう曲をかけていることもある。携帯のスピーカーだから音質はよくないし、音量を上げれば音が歪む。でも、だれも注意しない。音に対して寛大なのはあいかわらずである。


携帯でクルアーン(コーラン)を流している人も多い。突然、隣の座席に座っている人のポケットからクルアーンが鳴りだしたりもする。携帯の着信音をクルアーンに設定しているのだ。タクシーで運転手がラジオでクルアーンを流していることはよくあるが、着信までクルアーンとは。もちろん、そこには信仰心もあるだろうが、くわえて周囲に自分の信仰心をアピールするという見栄もあるのだろう。


あと、街中でベール(ヒジャーブ)をかぶって髪を隠している女性の姿が、さらに増えた。ベールの着用率は1990年代から増えてきたといわれるが、いまでは若い女性の8割近くがベールをしているのではないか。この現象をイスラム回帰と見るむきもあるが、むしろ、ベールが宗教的シンボルではなく、ここの女性のファッションとして定着したというほうがあたっているように思う。現にベールのデザインは以前よりバラエティーにとんでいるし、それがいちがいに宗教回帰と思えない理由に、ベールはしているけれど、ボディーラインが浮き出るようなぴっちりした服やジーンズの若い女性の姿が目立つ。べール&ボディコンである。

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話はがらりと変わる。このあとスーダンに行くので、先日、黄熱病の予防接種を受けにいった。日本だと接種場所がかぎられ、接種にかかる代金が約1万円と高い。カイロだとその数分の一ですむ。ただし、接種場所は病院ではなく、新市街にある古いホテルの中。いかにも怪しいのだが、ずいぶん昔、やはりそこで接種を受けて、公式なイエローカードをもらった記憶がある。いまもやっていると聞いて、足を運んだ。


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くだんのホテルは看板は出ているものの、中はがらんとして真っ暗で営業している様子もない。奥の方では壁をこわしている人もいて、ほとんど廃墟と化している。つぶれたのかと思って帰ろうとしたら、中にいた人が注射はあっちだと教えてくれる。教えられた方へ行くと、奥に一室だけ明かりがついている。六畳ほどの小部屋に小さな机と椅子があり、そのまわりでベールをした普段着のエジプト人女性が三人でおしゃべりしている。


ぼくが入っていくと、みながいっせいに振り向く。「ここで黄熱病の接種をしてくれると聞いたのですが」というと、ここだ、ここだといって、すわるようにいわれる。どこに行くのかと訊くので、スーダンに行って、それからエジプトに戻ってきて、日本に帰る予定だというと、机の前にいた女性が「それなら3本だ」といって、指を3本立てる。


3本? 聞けば、「アフリカ」からエジプトに戻ってくる場合には、黄熱病のほかにコレラと髄膜炎の接種が必要だという。そんな話は初耳である。日本の外務省では接種が義務化されているのは黄熱病だけのはずだと反論しても、「エジプトに戻ってくるのなら3種打たなくてはだめだ」の一点張り。しかも、その3種をいちどに打つという。


そんなの大丈夫なのか。日本ではコレラだって二回に分けて打つ。黄熱病はたしかほかの接種との間隔を一週間くらい空けるんじゃなかったか。それにまとめて3本も注射してちゃんと免疫ができるのか、副作用はどうなのか。説明を求めても、「だいじょうぶ、怖がらなくていい。先月まではさらにインフルエンザの接種も必要だったので4本だった。あなたは3本なんだからラッキーなのよ」という。答えになっていない。医学的におかしいのでは、となおも反論するも、その女性は「私は医者よ、医者の私がいっているのだからだいじょうぶ」という。そのとき初めて彼女が医者だと知った。彼女は、これはエジプトの法律にのっとって行われることなのだ、断ればイエローカードは発行できないという。うーん、ほとんど脅迫ではないか。


押し問答するも、こちらもイエローカードが必要なので結局、観念する。注射代135ポンド(約2500円)を払うと、看護婦らしき別のエジプト人女性がにこにこしながら、冷蔵庫からワクチンと3本の注射器を取り出して、左腕に二本、右腕に一本、たてつづけに注射。「腕がだるくなるかもしれないけど、それはノーマルだから」といわれイエローカードを渡され、「バイバイ」といわれる。


そのあとネットで調べてみると、黄熱病の接種についての日本語の解説ページに、「接種後10日目から10年間有効です。接種しますと、1ヶ月は何も注射できませんのでご注意下さい」とある。1ヶ月だって? あーあ、なんてことだ、と思っても、もう後の祭りである。発熱などはないし、気持ち悪くもならなかったが、腕はだるいし、やはり不安なので翌々日に大使館の医務官に電話して聞いてみる。


医務官は、3本ですか、といってちょっと黙っていた。そのあと「ただ、緊急の場合には同時に注射をすることはあります。副作用のリスクという点からすれば望ましいことではありませんが、それがもとで免疫ができないということはないとおもいます。まあ、二日たって発熱などないようでしたら大丈夫でしょう」とおっしゃる。「緊急の場合」ではけっしてなかったはずだが、とりあえずは、ひと安心する。


カイロの居候先のエジプト在住ウン十年のWさんに話すと、「それは交渉しなくてはいけませんな」といわれる。「冗談まじえて、エジプト人のあんたたちは強いから3本でも大丈夫だけど、日本人は弱いから1本で十分なんだとか、この前、黄熱病だけしか打っていなくてエジプトに来た日本人の知り合いがいたとか、うそでもいいので、いろいろいうことです。実際には黄熱病だけでも空港で問題になることはないはずですから。まあ、そのときに笑いやジョークをまじえながらするのですよ。そうしないとこっちの人は意地になりますからね」。


さすがに、ジョークをまじえるゆとりはなかったな。Wさんによると、カイロ空港でも黄熱病の接種は受けられるそうだが、その場合イエローカードが発行されないこともあるらしい。「それじゃ受けたことを証明できないので意味ないじゃないですか」というと、「まあ、そうですな、ははは」という。エジプトはあいかわらず、深いのか浅いのかわからない。

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