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雑記

キンシャサが舞台の映画 『わたしは、幸福(フェリシテ)』

コンゴ民主共和国の首都キンシャサが舞台の映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』が12月16日(土)から公開される。セネガル系のフランス人、アラン・ゴミス監督が、アフリカを西洋の視点からではなく、そこに生きる一人の女性の視点から描いた作品。ここには飢餓も難民も紛争も、西洋によって類型化されたアフリカ人も出てこない代わりに、アフリカの都市に生きる女性のリアルがみごとに描かれている。


 

キンシャサは、アフリカの他の都市にくらべて酸素濃度が高いんじゃないかと思われるほど人びとのテンションが高く、それだけによくも悪くもいろんな事件が起きる。その中でよく撮影したものだと思うが、おかげであの街の独特の空気感がとてもよくとらえられている。初日16日のヒューマントラストシネマ渋谷での16:30の回の上映終了後には、字幕監修をされた奥村恵子さん(パパ・ウェンバのバンドのパーカッショニスト)のトークもある。わたしもこの映画についてエッセイを書きました。(下、プレス向け資料より。ネタバレというほどではないけれど、気にされる方は読まないほうがいいかも)。(´Θ`)ノ


 
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アフリカを撮りつづけた大塚雅貴さんのこと

たいへん残念なお知らせです。友人のカメラマンの大塚雅貴さんが、コンゴ民主共和国で取材中、不慮の事故で亡くなりました。


大塚さんは8月初めにキンシャサ入りし、コンゴ河上流にむかって移動しながら取材をすすめていらっしゃいましたが、8月25日の夕方、バイクで移動中の小休止の折、突然倒れてきた大木の下敷きになり、その後まもなく亡くなられたということです。念願のコンゴの森の中で取材を進めているさなかの、突然の、それも確率的にも、ほぼありえないようなできごとに、いまだに現実感がありません。


大塚さんはサハラ砂漠の奥地で、遊牧民たちと生活をともにしながら、長期にわたって撮影をつづけるというスタイルで20年あまり仕事をされてこられたサハラ取材の第一人者です。2年前にはキヤノンギャラリーで巡回写真展も開かれています。過酷な自然のただなかで、じっくり撮影をするタイプの写真家が少ないいま、文字どおり命がけで写真に取り組んできた希有な方でした。


大塚さんと知りあったのは20年前のカイロでした。野町和嘉さんの助手としてサハラ取材に同行したことから、現地の言葉や文化を理解した上で写真を撮りたいということで彼はカイロにやってきました。しばらくエジプトに滞在して、アラビア語を学びながら、デルタ地帯の農民の撮影などをされ、その後は、サハラの遊牧民から雲南の棚田風景まで、生々しい自然とそこで生きる人びとを中心に世界のさまざまな場所で撮影を続けられました。


大塚さんの写真には沈黙を余儀なくさせるような厳粛で、深いしずけさがありました。なにか途方もない光景を目にしたときに、一瞬すべてのことばがやんでしまうような、そんな「とき」がとらえられていました。「美しい」とか「すごい」とかといったことばが立ち上がる前の、かすかな瞬間。彼の写真集『SAHARA 砂と風の大地』(山と溪谷社)には、そんな、はかなくも永遠につながっているような瞬間が無数にとどめられています。


リビア、マリ、ニジェールなどで長年にわたって撮影をつづけてこられた大塚さんですが、アラブの春以降、サハラの治安は急激に悪化し、取材も困難になってきました。しかし、ライフワークともいえるサハラがそんなありさまになっても、大塚さんは国内はもちろん、中東、アジア、ヨーロッパ、オーストラリア、北米、そして国内と、各地で淡々と撮影をつづけられていました。


そんな彼から電話をもらい「コンゴに行きたいんです」と告げられたのは昨年9月の半ばでした。砂漠のような乾いた世界を撮りつづけていた彼が、真逆ともいえる熱帯雨林の世界を撮りたいとは意外でしたが、じつは以前からずっと行きたいとおもっていたとのこと。大塚さんの静謐なまなざしで、あの饒舌きわまりないともいえる森と大河の世界を撮ったらどうなるのだろうと想像するとわくわくしてきて、さっそく力になってくれそうなコンゴ関係の友人を紹介しました。


大塚さんは、その後こつこつと準備を進めて、8月の初めに首都のキンシャサに入り、そこからコンゴをフィールドとする研究者の方々に同行して上流のキサンガニに向けて河をさかのぼるルートで取材をすすめられていました。そのさなかの事故でした。


大塚さんはこれまでにも取材中に拘束されたり、身ぐるみ剥がされたりという目にあいながらも、その都度切り抜けて来られました。コンゴも治安はけっしてよくありませんが、紛争やテロに巻き込まれたわけでも、強盗に襲われたわけでも、風土病にかかったわけでも、交通事故にあったわけでもなく、「まさか」としかいえないような偶然で命を落とされたことに、いまだ混乱をおぼえます。


すこしだけ救いを感じるとすれば、森の中での最後の小休止のとき、大塚さんは、なにかこころひかれるものを見つけて、それを撮影しにいったことです。それがなんだったのか、写真を見たからといって、けっしてわからないでしょうが、いつか機会あるならば、彼の目に映っていたコンゴ河や熱帯雨林の風景を、のこされた写真をとおして見ることで、彼が見つめていたものに、ほんのわずかでも近づくことができればとおもいます。そして、大塚さんのことを知らなかった方には、ぜひ彼の美しいウェブサイトや写真集を見てみていただければとおもいます。

エジプト映画「ヤギのアリーとイブラヒム」

エジプト映画「ヤギのアリーとイブラヒム」を早稲田の戸山キャンパスで見た。コミカルでファンタジーなロードムービーで、とても楽しい作品だった。来週9/9(土)にも大阪の民博でも上映会があるのでその案内もかねて。


カイロの庶民街に暮らす2人の若者。ひとりは耳鳴りに悩む才能あるミュージシャン、もうひとりは一頭のメスヤギを死ぬほど愛していていて、どこにいくにもいっしょに連れていくので、まわりから変人扱いされている。この2人が自分たちの悩みを解決するために、呪術師のアドバイスのもと、カイロからアレキサンドリア、シナイ半島のダハブへと旅をする・・・。


コミカルでテンポのいいやりとり、カイロの繁華街や下町、ナイル川や地中海、紅海の美しい風景など、エジプトに住んだり旅したりしたことのあるひとなら、 文句なしに楽しい。けれども、それにくわえてよかったのは、この作品が人間の孤独の本質を、けっして深刻ぶることなく、さらりと、しかしあざやかに描いていることだった。

世界には70億ものひとがいるけれど、だれひとりとして同じ世界を生きてはいない。「私」の見ている世界は、「私」以外のだれにもけっして見ることができない。にもかかわらず、ひとびとは相手と自分が同じ世界を見ていると思い込むことで、自分がたったひとりの世界に生きていることを感じないようにしてい る。


しかし、ここに登場するヤギを恋するアリーと、耳鳴りのイブラヒムが生きている世界は、ほかのだれにも理解されない。耳鳴りは本人にしか聞こえないし、ヤギへの愛情も本人にしかわからない。もちろん、だれもが自分にとってだいじな世界をもっているだろうけれど、たいていは他者と共有できる領域をとおして世 界とのつながりを保っている。しかし、アリーにとってはヤギ(ナダという名前)なくして世界とのつながりはないし、逆にイブラヒムにとっては耳鳴りが世界とのつながりを妨げている。


「聞く」ということがこの映画ではキーになっているように感じた。2人が孤独なのは、彼らがおかしいからではなく、彼らに聞こえているものを、まわりのひ とが聞く術をもたないからだ。アリーにはわかるヤギの言葉の意味も、イブラヒムの脳内をつらぬく耳鳴りも、まわりのひとには聞こえない。


映画では、その聞こえない音や言葉がまわりのひとたちにも聞こえるようになるかどうか、というあたりが展開のモチーフになっている。自分にしかわからなかった言葉がひとにもわかるようになり、自分にしか聞こえなかった音がひとにも聞こえるようになれば、世界はいままでとはちがうかたちであらわれる。この くらいならネタバレにはならないと思う。

映画を見ていたとき、登場するヤギの名前が「ナダ」というのが気になった。ナダ(Nada)とはサンスクリット語で「音」を意味するからだ。それもただの音ではなく、世界を創造する根源的な音といったような哲学的な意味を含んでいたと思う。ナダという名のヤギは、まさに音をとおして、2人の世界を再創造す るきっかけとなったという意味で象徴的だなあと思って見ていたのだが、実際に監督はそんな意味を込めてつけたのかなと思い、上映後、監督に直接聞いてみたところ、「ナダはエジプトの女性によくある名前です。それだけです」といわれた。ぜんぜんちがった(笑)。


来週の9月9日(土)には大阪の国立民族学博物館でも上映会+監督インタビューがあります。大阪の人たちぜひ。手話通訳付です(´Θ`)ノ


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オープンダイアローグの「不確実性に耐える」をめぐって

オープンダイアローグの創始者のヤーコ・セイックラ氏と精神科医のビルギッダ・アラカレ氏の来日講演会が東大の安田講堂であった。


オープンダイアローグとはフィンランドで開発された対話をベースとした新しい精神療法(興味ある方は検索すれば、いろいろ出てきます)。画期的なアプローチとして一部で脚光を浴びている反面、日本での展開にはさまざまな困難もある。画期的といっても、そこでいわれているのは「患者本人のいないところで患者のことを決めない」とか「患者の話をよく聞く」とか、そのほとんどは拍子抜けするほど「あたりまえ」に聞こえることばかりだ。逆にいえば、そういうことがほとんどなされていなかった従来の精神医療の現場が、どれだけ異常だったかということだ。


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オープンダイアローグの基本的な考え方のひとつに「不確実性に耐える(Tolerate Uncertainty)」というのがある。この日もセイックラ氏はそのことにふれて、「これは治療ミーティングでいちばん大切なことです。正しい答えがあるわけではなく、つねにこれでいいのかという不安や恐怖に耐えて、そこで安心感をどう増やしていけるかを考える。それはエビデンス主義とか、専門家がすべてをコントロールするという前提に立つ治療のメインストリームとは真逆です」と語った。


「不確実性に耐える」とは、個人的にはアフリカの旅そのものだ。以前そのことをからめて「コンゴの旅とモヤモヤするマインドフルネス」というテーマで話をしたことがある。


患者のことをいちばん知っているのは医師ではなく患者自身だ。ただ、患者本人が、自分について知っていることにたどつりつけない。自分を語る「言葉」を見つけられない。その言葉を見つけるために、患者によりそって対話の場所をつくるのがオープンダイアローグ(ということなのかな?)。そこでだいじなのは、変化を促すことではなくて、あくまで対話の空間を深めていくこととされる。


だが、そのためにスタッフに必要とされる専門性とか、経験値とか、知識とか、自信といったものは、ともすればその理念とは相反するタテの権力性につながりかねない、というパラドクスをはらんでいる。だからこそ、安全感の確保された対等な関係が意識されなくてはならない。


それはわかるのだが、権力というのは上にいるものにとっても下にあるものにとっても快楽をもたらす。社会では多くの場合、安全や安心がタテの権力性によって保証されてきた、もしくは保証されていると思い込まされてきた。その中にあって、対等なヨコの関係が安心安全にむすびつくというのを受け入れるのに抵抗のあるひともいるだろう。


たとえば、「あなたのことは、すべてわかっています。安心してください」といわれるのと、「あなたのことは、さっぱりわかりません。安心してください」といわれるのでは、どちらが「安心」できるだろう。前者はタテの権力性の中の発言であり、後者は対等である。あるいは前者があなたを「症状」や「事例」として見ているのにたいして、後者はあなたを「人間」として見ているともいえる。「あなたのことは、わかっています」という新興宗教の教祖っぽい言い方からは、自分をまるごと権力に明け渡すことで安心感が得られるかわりに、依存関係は強化される。


かといって、「あなたのことは、さっぱりわかりません。安心してください」といわれて安心できるひとはあまりいないだろう。医師とは「わかっているべき人」だと、患者が思い込んでいるからだ。だから、医師と患者、あるいは親と子、先生と生徒、上司と部下でもいいが、そういう関係性においては、どうやっても権力性が介在し、その権力性に双方が依存している。それが双方にとって都合よく機能すればよいが、この権力構造そのものによって不具合が生じている場合、「対等」になるためにその関係性をゆるめなくてはならない。それには「患者はこういうものだ」「医師はこういうものだ」という双方の「わかった」を手放さなくてはならない。


「わかった」あるいは「わかったつもり」は権力性や暴力と快楽をともにもたらすからややこしい。「あいつらはテロリストだ」というとき、「あいつら」のことは「わかっている」し、「テロリストは悪い」ことも「わかっている」という前提がある。本当はちっともわかっていないものを「わかったもの」に仕立て上げて排除・支配して、安心という快楽を得る。それはわれわれ自身、気づかずに無意識にやっていることだ。それを自分自身に向けて行いつづければ、ほんとうは「わかっていない」自分のありかたがなんとなく「わかった」もののような気がしてきて、要するに自分で自分をだましていることにすら気がつかなくなって、心身が機能不全を起こしていく。


「不確実性に耐える」とは、こういう「わかった」あるいは「わかったつもり」を手放すことなのだろう。患者を前にして、その症状だけを過去の事例に還元して「おまえのことは、するっとまるっとお見通しだ!」(ちと古い。。)といいたくなる誘惑をおさえて、「あなたのことはさっぱりわかりません。でも、時間はかかるかもしれないけれど、あなたの言葉をいっしょにさがしてみましょう」といって、そのひとの経験の独自性をうきぼりにしていくということなのだろう。それはすっきりしないし、不安だし、怖いことだけれど、それでもきっとなんとかなるだろうし、ならなくてもまあいいやくらいの気持ちで、安心してモヤモヤしよう、ということなのだろう。


『リベリアの白い血』を観た

一週間くらい前に渋谷のアップリンクで『リベリアの白い血』という映画を見た。西アフリカのリベリアのゴム園で過酷な労働をしていた男性が、移民した従兄弟をたよってニューヨークへわたり、そこで経験する理想と現実が扱われている。こんなコアなテーマを取りあげたのが日本人監督であり、しかもカメラマンが撮影中に感染したマラリアで亡くなったという衝撃的な話をさしひいても、とてもていねいにつくられたいい作品だった。


過酷なゴム採集の労働に従事する主人公はアメリカにわたった従兄弟がいることで村の仲間から、うらやましがられ、事あるごとに「アメリカでは月いくら稼げるのか」とか「おまえもいつかはアメリカに行くのだろう」とやっかみをいわれる。実際には従兄弟をとおして、アメリカの暮らしがけっして楽ではないことは知っている主人公だが、それを仲間に納得させられない。過酷な搾取構造の最底辺にいる者にとって、アメリカが理想の楽園に見えるの無理もない。結局、主人公はニューヨークへわたるのだが、そこで待っていたのは、よそよそしく苦い現実だったーー。


前半はリベリア、後半はニューヨークが舞台。リベリアのパートはアフリカの暮らしのリアルな感じがよく出ていた。科白も現地語だ。後半のニューヨークのパートは、リベリア内戦の話を取り入れることでストーリーに変化をつけている。


主人公はニューヨークのリベリア人コミュニティに迎え入れられる。実際、米国では国や民族集団ごとにコミュニティがある。以前コーネル大の教授から聞いた話では、ワシントンDCではタクシードライバーはナイジェリア移民の1世、ニュージャージーのガススタンドのオーナーはインドのシーク教徒、カリフォルニアのドーナツショップはインド系といったように各マイノリティ集団が特定の業種を独占しているという。リベリア・コミュニティがどういう位置づけなのかはわからないが、それぞれのコミュニティはレイヤーのように、それぞれのニューヨークを生きていて、その内側は外からはなかなかわからない。そうした見えにくい現実に光をあてたという点もこの作品の画期的なところだ。


こういう映画を見ると、いったい「アメリカ映画」とか「フランス映画」とか「ドイツ映画」といった日本で当たり前のように使われている国家別の映画のくくりに、どれほどの意味があるのかと思う。たとえばノルウェーに移民したレバノン人が、そこにやってきたシリア難民を扱った映画をつくったとすれば、それはどこの国の映画になるのだろう。そういうカテゴライズそのものが、もはや意味をなさなくなっている。『リベリアの白い血』を日本映画ということはほとんど意味がない。この前、中東映画研究会で見た『辛口ソースのハンス一丁』というドイツ映画もそうだった。その話はまたこんど。


話はもどるが、『リベリアの白い血』のモチーフにもなっているゴム採取はアフリカにとって因縁深い。100年以上前、ベルギー王レオポルドの私領地だった「コンゴ自由国」では、ゴム採取のノルマを達成できない人夫は見せしめに手首を切り落とされた。やがて見張りたちは自分が仕事をしていることを白人長官にアピールするために、人夫たちの手首だけを切り落としてもっていくようになり、のちにその実態が暴露されてスキャンダルになった。アフリカのゴム採取にはそんな暗い記憶がつきまとっている。ともあれ『リベリアの白い血』、おすすめです。(´Θ`)ノ


キュウさんのこと

坐禅会で知りあったキュウさんは上海生まれ北京育ちの中国人女性。日本の大学を出て、いまは東京のシンクタンクに勤めている。上海へ行ってきますといったら、あらー大都会ですよーといわれた。


穏やかでほんわかとした雰囲気のある彼女に、どうして坐禅をしようと思ったんですかと以前訊いたら、「がまんを学ぶためです」という答えがかえってきた。


「考えてみたら、私はこれまでの人生でがまんしたことがないんですよ。それってあまりいいことじゃないのかなと思って・・」


「それで生きてこられたんならば、いいじゃないですか。がまんなんて、しないにこしたことないですよ」


どちらかというと、坐禅しようなんて人は、ふだんの生活でがまんしつづけている人のほうが多いのではないか。がまんしつづけているうちに自分を見失って坐禅にたどりつくとか。そして、たいてい、がまんしつづけている人ほど、頑固でわがままだったりするのだ。


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キュウさんの日本での暮らしはもう20年以上になる。すっかり日本の感覚がしみついてしまって、ときどき帰国すると、お姉さんに、あんた給料あがったの? もっとガンガンいかなきゃだめよ、とハッパをかけられるという。


「中国人は現状維持が嫌いなんです」とキュウさんはいう。「なんでも他人と比較して、それを超えたがる。〈比較〉こそがエネルギー源。ちょっとでもチャンスがあれば、リスクがあっても、どんどん前に出てチャンスをものにする。それが当たり前の考え方」


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日本人は現状維持したがり、リスクをとることを極端に怖れる。中国人にとってエネルギー源である〈比較〉は、日本人にとってはプレッシャでしかない。チャンスをものにしようという意欲もなく、最初から諦めてしまう。リスクばかり見て可能性のほうを見ようとしない。 失敗した時の社会的な制裁や、自己責任恐怖がひじょうに強い。


規制についての考え方もそう。日本人は規制がないと動けない。個人の責任を問われることを嫌うので、規制をきちんとしてくれることを望む。新しいことをするにしても、規制がしっかりできて個人にふりかかるリスクがないと確認できるまで動こうしない。そうやってチャンスを逃してしまう。でも、チャンスを生かすよりも、責任逃れの方が重要。中国人にはそういう考え方が想像できない。規制は嫌い。グレーの方がチャンスが生まれて大胆になれるから。


「でも中国にも情報統制や報道規制をはじめ規制がいろいあるようにみえますけど?」と訊くと、日本から見ると規制が国を覆っているように見えるかもしれないけれど、実際は広い国土の中でそれは点のようなもの。実際は穴だらけ。国の規制や管理なんて、人びとはたいしたものだとは思っていないとキュウさん。

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「日本人にとって黄金時代は高度成長期だったんでしょうね。コストをかけて良いものを作ることが日本の発展を支えてきた。でも、その考え方に縛られていて、新しい世界の状況に対応できずにいるように見えます。日本人はいろんな点で恵まれているのに、実際は生活に喜びを感じておらず、先のことをいつも心配していて、不幸になっている・・


「私は東日本大震災の後の被災地の復興がいまだに進んでいないことが信じられない。完璧なものを作りたいいう要求が高すぎる。中国は四川大地震の後、1年で全てが再建された。復興ではなく再建。それは共産党主導だからできたことです。党がやるといったらできてしまう。人口が多いから一つ一つ意見を聞いていたら何事も前には進めないんですけどね・・・」


なにを見ても、なにかを思い出せない。。

『なにを見てもなにかを思い出す』というヘミングウェイの短編がある。小説の内容よりそのタイトルにひかれていた時期がある。初めて会う人が、知人のイメージに重なったり、初めて来た場所が過去に見たことある風景を思い起こさせたりということが、いまから10年くらい前までよくあった。


ある程度の長さ、人生を生きてくると、たまった知識や経験が、おのずと目の前の風景に重なるのは自然なことかもしれない。それを人生の豊かさという言葉で表したりもするのだろうが、そのときは豊かさよりも、むしろなにかを思い出してしまうことで、自分が過去の記憶や経験に閉じこめられているような息苦しさを感じていた。


ところが、最近はそういうことが、あまりなくなった。なにを見ても、あまりなにかを思い出さなくなった。過去の記憶を参照して目の前の風景や人を見るということが前ほどなくなってきている。だから、なんどか会っているひとにも、つい「はじめまして」といってしまったりする。。。


たんに忘れっぽくなったせいもあるだろうが、それにくわえて、人生の残り時間が意識されるようになってきたこともあるかもしれない。目の前に起きている現実ーー人との出会いだったり、風景だったり、自分じしんだったりーーが、よくもわるくも、これまでいちども起きたこともなければ、もう二度とくりかえすことのない一回かぎりのものなのだ、という事実にいまさらながら気づく。そこに過去の経験がレイヤーのように重なって感じられることはある。けれども、そのレイヤーに現在に侵入する力はもはやない。過去は手の届かないところに不安げに漂っている。


この「時」が「二度とくりかえすことのない一回かぎりのもの」だとしたら、未来は予想できないし、先も見えない。先が見えないと、ひとは不安になったり心配になったりする。でも逆に、先が見えてしまっても、ひとは不安になったり絶望したりするものだ。『なにを見てもなにかを思い出す』を書いたヘミングウェイも結局自死を選んだ。昨今のテロや紛争も「先が見えないから」というより、「見えすぎてしまった先」をこわしたい衝動に由来しているようにも思う。


見方によっては「先が見えない」とは一回かぎりの新しさの中を生きていることであり、それは先の見えてしまった絶望にくらべると、希望にもなりうるのかもしれない。そのことを感じたのは、10年くらい前、認知症になった母を見ていたときだった。


母は5年にわたって認知症で入院していた。認知症の症状はひとによってさまざまだが、母は認知症になる前から、不幸な結婚生活の記憶のせいで、被害者意識を抱えるとともに、それを十分に受けとめられなかったぼくにたいして愛憎入りまじった激しい攻撃性を見せてきた。それが亡くなる前の一年、認知症の進行にともない過去の記憶がうすれていくとともに、母は憎悪や苦悩から解放されていった。それは認知症の悪化による脳の萎縮のせいであったのだが、ぼくにはむしろ数十年ぶりに母の意識の中に光が射してきたようにすら感じられた。


記憶を失うことで、母はぼくをだれかとまちがえることもあった。それでも、そこにぼくがいることを母は心から喜んでくれた。話をしているさなかも母の記憶は泡のように、たちまち消えてしまうのだけれど、そのたびにぼくは新しい息子として、母の前に出現していたのだと思う。そこでぼくは母と何十年ぶりかに「まとも」な会話をした。こうなる前にそういう会話をしたかったとも思ったが、それでも最後の数ヵ月、母の表情が目に見えて安らかになってきたのは、ありがたいことだった。


ありがたい、といえば、「ありがとう」という言葉の反対は「くたばっちまえ」でも「呪われよ」でもない。「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのだという。なぜなら「有り難う」とはめったに起きることのない例外への賛美だからだ。坊さんのしそうな話だが、そのとおりで坊さんのした話だ。


一方、「あたりまえ」とは「なにを見てもなにかを思い出す」ことであり、「日の下には新しいものはない」ことであり、「先が見えてしまう」ことだ。知識や経験や記憶は、えてしてひとをあたりまえの世界に追いやり、その中に閉じこめてしまう。そのあたりまえが快適ならいいが、そこが苦悩に満ちているとしたら、そこから出たい。自分で出られなければ忘却にたよるしかない。できれば建設的に忘却したいものだが思うようにはいかず、なんどか会った方にも、つい「はじめまして」といってしまうかもしれないが、どうかおゆるしください。。あひる商会CEO誕生日の夜に。<(˘⊖˘)>



明日世界を終わらせないために

3月15日と16日に「明日世界が終わるとしても」と題して、2夜連続でそれぞれシリアとルワンダで支援活動をされている日本人を取りあげたドキュメンタリーが放映された。2夜目で取りあげられた佐々木和之さんは、ルワンダのプロテスタント人文社会科大学の平和紛争研究所で、いまだつづく虐殺の当事者たちの葛藤や苦しみを12年にわたって見つめつづけてきた方。昨年秋に来日されたとき東京外大で話をうかがったことがある。


虐殺から23年、経済力のあるひとは村を出て行ったが、大半の人たちは生活のために惨劇のあった村にとどまらざるをえない。親族を殺されたり自分を傷つけたりした加害者と同じ場所で、被害者が生きていかなくてはならない。信頼回復のために、加害者を訴追するだけではなく、加害者による告白と謝罪などの取り組みもなされてきた。とはいえ当然ながら信頼回復はかんたんではない。


差別を合法化していた旧政権にたいして、現政権はフツとツチのエスニック表記をなくすことで「みんな、いっしょなんだから」みたいな路線をとろうとしている。一見よさげに聞こえるかもしれないが、実際にはいまなお特定の集団が優遇されている現実がある。しかし建前上、差別がないとされることによって、かえって格差や不平等が強化、隠蔽され、再生産されていく。経済的な配分の不平等にたいしてすら批判の場さえない。外大の講演ではこうした構造的な矛盾や現実の複雑さについてふれられていて興味深かった。


被害者女性と加害者男性との和解をとりもつ対話のシーンは、とても印象的だった。自分の気持ちを話すとき、被害者に丸い石を持たせる。加害者はだまって耳をかたむける。こんどは加害者がその石を手にして自分の奥深い気持ちを話し、被害者がじっと聞く。何日もかけて、そうした対話をくりかえす。23年間、自分を苦しめつづけていた記憶がかんたんにいやされるはずはないが、それでもほんのわずかずつ変化が生まれる。そうした感情のこまやかな揺らぎが、短い枠の中で、ていねいにすくいとられていた。


1夜目のヨルダンのアンマンでシリア難民の訪問支援をされている田村雅文さんのドキュメントもよかった。訪問先のあるシリア難民はUNからのアメリカ移住へのオファーを断わっていた。彼は田村さんに「私のしたことは正しかったのか」となんども聞く。田村さんは否定も肯定もしない。先行きの見えない中、嫌がらせをされながらアンマンにとどまりつづけるより、変化を求めてアメリカへわたる選択もあるかもしれない。けれども、そういう助言や意見は口にせず、ただ彼の選択をみとめる。


傷つくのは一瞬だが、癒えるのには長い時間がかかる。けっして結果を急かさず、本人の中から変化が生まれるのを待ちつづけること、その遅々としたペースに時間をかけてつきあうことが、だいじなのだと伝わってくる番組だった。


残念な点もあった。「信念を持って生きる日本人の物語」というのがテーマだったためか、2夜目についていえば佐々木さんが講演で話されていたような構造的な矛盾には、ほとんどふれられていなかった。番組冒頭で「もう民族の違いはなくなった。われわれはみな同じルワンダ人だ」という町の人の声が紹介されていた。先ほどもふれたように、こういう口当たりのよいスローガンによって、現実に存在する差別や不平等は覆い隠されてしまう。「同じ○○人じゃないか」といって得をするのは政権の側にいる人たちだからだ。


実際、大学へ行けるエリート層はツチのほうが多く、政府の支援のおかげで働かないで勉強できるのもほとんどがツチだという。しかし、そのエリート層が、かつての悲劇によって強烈な被害者意識をもちつづけている。イスラエルもそうだが、エリート層が被害者意識をもちつづけるかぎり、構造的な矛盾は温存される。もっとも、このような問題は政権批判につながるのでテレビでは扱いにくいのだろう。


あともうひとつ、メインテーマになっている「明日世界が終わるとしても」という言葉にも違和感があった。これは「明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」というマルティン・ルターの言葉が出典だそうだが、田村さんにしても、佐々木さんにしても、明日世界を終わらせないために活動しているのではないのか。


これがもし「私が明日死ぬとしても、私はリンゴの木を植える」ならばわかる。私が死んで「私の世界」が終わったとしても、ほかのひとたちの世界はつづいていくからだ。


「明日世界が終わる」とは明日隕石かなにかが落ちてきて、この物理的な世界そのものが終わることを意味しているわけではないのだろう。明日がどうなるかはわからないけれど、いまできることをする。その行為が明日をつくる。そのことを信じようということではないのか。明日世界が終わってしまっては困るのだ。


むすこの帰省、Y君のこと

3年前に就職して九州にいるむすこが正月に帰ってきた。盆と暮れに、たいてい一晩、うちに来る。今年は焼酎のお湯割を飲みながら、さいきん聞いている音楽を互いに聞かせあったりして夜を過ごした。いまはブラックミュージックが好きだといい、お気に入りのRobert Glasperなど聞かせてくれる。自分もさいきんはWeekndとか好きなので、すこし話が合う。どちらの音楽にも、どこかかわいたもの哀しさがある。焼酎がなくなると、残っていたワインを飲み、それもなくなるとお湯を飲みながら、音楽を聞きながら話す。


学生の頃、終電がなくなると渋谷の雑居ビルに住んでいた友人のY君の部屋にころがりこんだ。狭い四畳半の角にウッドベースがたてかけられていて、棚はおびただしい数のレコードで埋まっていた。飲むと、Y君は死体洗いのバイトをしていたときの話や、密航してアメリカにわたったときの話などをした。淡々とした口調で、細部にいたるまで生々しい話にはいくたびとなく驚かされた。それらがすべてホラだったことに気づいたのは、何年もたってからのことだった。


話をしながら、Y君は棚からジャズやプログレのレコードをひっぱりだしてかけた。マイルスもビル・エバンスもウェザーリポートも、リッチー・バイラークのパールも、キース・ジャレットの弾くマイ・バック・ペイジズも、彼の部屋で初めて聞いた。トースターで焼いてくれる厚揚げもおいしかった。


彼の部屋で朝を迎えたことは通算すればおそらく一ヵ月以上になる。いま思えば、それはY君のいる空間の居心地のよさに惹かれていたのだと思う。口は悪いし、辛辣だったが、それは繊細さの裏返しであることはわかっていたから、まったく気にならなかった。だから、渋谷の交差点で酔って車にはねられたときも、病院にいかずにふらつきながらY君の部屋へいった。事故をネタに飲んだ酒はなによりの癒しになった。もっとも翌朝起きたら体中痛かったけれど。


明け方、空が仄かに明るくなる頃、Y君はよくチック・コリアとゲイリー・バートンのクリスタル・サイレンスをかけた。その透明な音楽は、都会が夜から朝へと変わるときの、わずかなしじまにびったりだった。


むすこと話しているときに、そんな昔のことをふいに思い出し、まだ夜明けには2時間ほど早かったけれどクリスタル・サイレンスをかけた。そして、こうしていろんな話ができたことをうれしくおもうし、それを口に出していえる場所と時間が持てたこともうれしく思う、と彼にいった。そんな反応に困るおやじの感傷をさりげなく受けとめ、流してくれたこともありがたかった。


たとえ、いっしょの時間を過ごしていようと、そういうことを口にできる機会はなかなかないし、気づくのもずいぶんあとになってからだったりする。Y君にも、そのことを伝えたかった。あの部屋ですごした時間がどんなに豊かで、かけがえなく、自分にとって救いになっていたか。でも、そのことを十分伝えられたかどうか確信が持てないうちに、きみは世を去ってしまった。今年はきみの墓参りにでかけようとおもう。



おひるね茶屋へ

やっとおひるね茶屋をおとずれることができた。おひるね茶屋は、作家の故・辻邦生さんの奥さまで美術史家だった故・辻佐保子さんの元実家で、北名古屋にある。いまは辻邦生さんと佐保子さんのプチ文学記念館になっている。

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辻邦生さんはとても気さくで、オープンな方だった。だから、辻さんのまわりには、彼を慕って集まる学生や編集者や、私のようなファンがいた。佐保子さんの役目は、そんな人たちから辻さんの時間を守ることだった。私も昔、佐保子さんに辻さんへの電話を取り次いでもらえなかったことがある。


その後、佐保子さんとも親しくさせていただけるようになったが、辻邦生さんは1999年に亡くなり、佐保子さんはひとりになった。私はときどきお宅におじゃましてお話したり、いっしょに辻邦生さんの墓参りにいったりした。


2011年のクリスマス・イブの前日、イスラエル土産の丸いローソクを佐保子さんに送った。火を灯すと、ローソクのまわりの幾何学模様が幻想的にうかびあがる。でも、そのローソクが到着したクリスマス・イブの朝、彼女は自宅でひとりで亡くなっていた(そのことは以前ブログに書いた)。


その後、親族の方からローソクを受けとりましたと連絡があった。私の送ったローソクはご実家だったおひるね茶屋に置いてあるとも聞いていた。


それから5年、ようやくおひるね茶屋を訪ねた。そこにはかつて夫妻の東京のマンションにあった品々や、若い頃の写真が並べられていて、とてもなつかしかった。昔、私が書いた「辻邦生さんへの最後の手紙」もファイルにはさんであった。ローソクはお二人が帰郷したときに使っていたという部屋に置かれていた。毎年、クリスマスには火を灯していますと弟さんからうかがい、ほっとした気持ちになった。


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佐保子さんが亡くなったあとに分けていただいたマイルス・デイビスの4枚組CDを聞きながら、これを書いている。「ふだんはスカルラッティをよく聞くわね。でも、休日にはマイルス・デイビスよ」と早口で快活におっしゃっていた佐保子さんの笑顔をおもいだす。いまごろ、あのローソクに火が灯っているかもしれない。


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