雑記

明日世界を終わらせないために

3月15日と16日に「明日世界が終わるとしても」と題して、2夜連続でそれぞれシリアとルワンダで支援活動をされている日本人を取りあげたドキュメンタリーが放映された。2夜目で取りあげられた佐々木和之さんは、ルワンダのプロテスタント人文社会科大学の平和紛争研究所で、いまだつづく虐殺の当事者たちの葛藤や苦しみを12年にわたって見つめつづけてきた方。昨年秋に来日されたとき東京外大で話をうかがったことがある。


虐殺から23年、経済力のあるひとは村を出て行ったが、大半の人たちは生活のために惨劇のあった村にとどまらざるをえない。親族を殺されたり自分を傷つけたりした加害者と同じ場所で、被害者が生きていかなくてはならない。信頼回復のために、加害者を訴追するだけではなく、加害者による告白と謝罪などの取り組みもなされてきた。とはいえ当然ながら信頼回復はかんたんではない。


差別を合法化していた旧政権にたいして、現政権はフツとツチのエスニック表記をなくすことで「みんな、いっしょなんだから」みたいな路線をとろうとしている。一見よさげに聞こえるかもしれないが、実際にはいまなお特定の集団が優遇されている現実がある。しかし建前上、差別がないとされることによって、かえって格差や不平等が強化、隠蔽され、再生産されていく。経済的な配分の不平等にたいしてすら批判の場さえない。外大の講演ではこうした構造的な矛盾や現実の複雑さについてふれられていて興味深かった。


被害者女性と加害者男性との和解をとりもつ対話のシーンは、とても印象的だった。自分の気持ちを話すとき、被害者に丸い石を持たせる。加害者はだまって耳をかたむける。こんどは加害者がその石を手にして自分の奥深い気持ちを話し、被害者がじっと聞く。何日もかけて、そうした対話をくりかえす。23年間、自分を苦しめつづけていた記憶がかんたんにいやされるはずはないが、それでもほんのわずかずつ変化が生まれる。そうした感情のこまやかな揺らぎが、短い枠の中で、ていねいにすくいとられていた。


1夜目のヨルダンのアンマンでシリア難民の訪問支援をされている田村雅文さんのドキュメントもよかった。訪問先のあるシリア難民はUNからのアメリカ移住へのオファーを断わっていた。彼は田村さんに「私のしたことは正しかったのか」となんども聞く。田村さんは否定も肯定もしない。先行きの見えない中、嫌がらせをされながらアンマンにとどまりつづけるより、変化を求めてアメリカへわたる選択もあるかもしれない。けれども、そういう助言や意見は口にせず、ただ彼の選択をみとめる。


傷つくのは一瞬だが、癒えるのには長い時間がかかる。けっして結果を急かさず、本人の中から変化が生まれるのを待ちつづけること、その遅々としたペースに時間をかけてつきあうことが、だいじなのだと伝わってくる番組だった。


残念な点もあった。「信念を持って生きる日本人の物語」というのがテーマだったためか、2夜目についていえば佐々木さんが講演で話されていたような構造的な矛盾には、ほとんどふれられていなかった。番組冒頭で「もう民族の違いはなくなった。われわれはみな同じルワンダ人だ」という町の人の声が紹介されていた。先ほどもふれたように、こういう口当たりのよいスローガンによって、現実に存在する差別や不平等は覆い隠されてしまう。「同じ○○人じゃないか」といって得をするのは政権の側にいる人たちだからだ。


実際、大学へ行けるエリート層はツチのほうが多く、政府の支援のおかげで働かないで勉強できるのもほとんどがツチだという。しかし、そのエリート層が、かつての悲劇によって強烈な被害者意識をもちつづけている。イスラエルもそうだが、エリート層が被害者意識をもちつづけるかぎり、構造的な矛盾は温存される。もっとも、このような問題は政権批判につながるのでテレビでは扱いにくいのだろう。


あともうひとつ、メインテーマになっている「明日世界が終わるとしても」という言葉にも違和感があった。これは「明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」というマルティン・ルターの言葉が出典だそうだが、田村さんにしても、佐々木さんにしても、明日世界を終わらせないために活動しているのではないのか。


これがもし「私が明日死ぬとしても、私はリンゴの木を植える」ならばわかる。私が死んで「私の世界」が終わったとしても、ほかのひとたちの世界はつづいていくからだ。


「明日世界が終わる」とは明日隕石かなにかが落ちてきて、この物理的な世界そのものが終わることを意味しているわけではないのだろう。明日がどうなるかはわからないけれど、いまできることをする。その行為が明日をつくる。そのことを信じようということではないのか。明日世界が終わってしまっては困るのだ。


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むすこの帰省、Y君のこと

3年前に就職して九州にいるむすこが正月に帰ってきた。盆と暮れに、たいてい一晩、うちに来る。今年は焼酎のお湯割を飲みながら、さいきん聞いている音楽を互いに聞かせあったりして夜を過ごした。いまはブラックミュージックが好きだといい、お気に入りのRobert Glasperなど聞かせてくれる。自分もさいきんはWeekndとか好きなので、すこし話が合う。どちらの音楽にも、どこかかわいたもの哀しさがある。焼酎がなくなると、残っていたワインを飲み、それもなくなるとお湯を飲みながら、音楽を聞きながら話す。


学生の頃、終電がなくなると渋谷の雑居ビルに住んでいた友人のY君の部屋にころがりこんだ。狭い四畳半の角にウッドベースがたてかけられていて、棚はおびただしい数のレコードで埋まっていた。飲むと、Y君は死体洗いのバイトをしていたときの話や、密航してアメリカにわたったときの話などをした。淡々とした口調で、細部にいたるまで生々しい話にはいくたびとなく驚かされた。それらがすべてホラだったことに気づいたのは、何年もたってからのことだった。


話をしながら、Y君は棚からジャズやプログレのレコードをひっぱりだしてかけた。マイルスもビル・エバンスもウェザーリポートも、リッチー・バイラークのパールも、キース・ジャレットの弾くマイ・バック・ペイジズも、彼の部屋で初めて聞いた。トースターで焼いてくれる厚揚げもおいしかった。


彼の部屋で朝を迎えたことは通算すればおそらく一ヵ月以上になる。いま思えば、それはY君のいる空間の居心地のよさに惹かれていたのだと思う。口は悪いし、辛辣だったが、それは繊細さの裏返しであることはわかっていたから、まったく気にならなかった。だから、渋谷の交差点で酔って車にはねられたときも、病院にいかずにふらつきながらY君の部屋へいった。事故をネタに飲んだ酒はなによりの癒しになった。もっとも翌朝起きたら体中痛かったけれど。


明け方、空が仄かに明るくなる頃、Y君はよくチック・コリアとゲイリー・バートンのクリスタル・サイレンスをかけた。その透明な音楽は、都会が夜から朝へと変わるときの、わずかなしじまにびったりだった。


むすこと話しているときに、そんな昔のことをふいに思い出し、まだ夜明けには2時間ほど早かったけれどクリスタル・サイレンスをかけた。そして、こうしていろんな話ができたことをうれしくおもうし、それを口に出していえる場所と時間が持てたこともうれしく思う、と彼にいった。そんな反応に困るおやじの感傷をさりげなく受けとめ、流してくれたこともありがたかった。


たとえ、いっしょの時間を過ごしていようと、そういうことを口にできる機会はなかなかないし、気づくのもずいぶんあとになってからだったりする。Y君にも、そのことを伝えたかった。あの部屋ですごした時間がどんなに豊かで、かけがえなく、自分にとって救いになっていたか。でも、そのことを十分伝えられたかどうか確信が持てないうちに、きみは世を去ってしまった。今年はきみの墓参りにでかけようとおもう。



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おひるね茶屋へ

やっとおひるね茶屋をおとずれることができた。おひるね茶屋は、作家の故・辻邦生さんの奥さまで美術史家だった故・辻佐保子さんの元実家で、北名古屋にある。いまは辻邦生さんと佐保子さんのプチ文学記念館になっている。

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辻邦生さんはとても気さくで、オープンな方だった。だから、辻さんのまわりには、彼を慕って集まる学生や編集者や、私のようなファンがいた。佐保子さんの役目は、そんな人たちから辻さんの時間を守ることだった。私も昔、佐保子さんに辻さんへの電話を取り次いでもらえなかったことがある。


その後、佐保子さんとも親しくさせていただけるようになったが、辻邦生さんは1999年に亡くなり、佐保子さんはひとりになった。私はときどきお宅におじゃましてお話したり、いっしょに辻邦生さんの墓参りにいったりした。


2011年のクリスマス・イブの前日、イスラエル土産の丸いローソクを佐保子さんに送った。火を灯すと、ローソクのまわりの幾何学模様が幻想的にうかびあがる。でも、そのローソクが到着したクリスマス・イブの朝、彼女は自宅でひとりで亡くなっていた(そのことは以前ブログに書いた)。


その後、親族の方からローソクを受けとりましたと連絡があった。私の送ったローソクはご実家だったおひるね茶屋に置いてあるとも聞いていた。


それから5年、ようやくおひるね茶屋を訪ねた。そこにはかつて夫妻の東京のマンションにあった品々や、若い頃の写真が並べられていて、とてもなつかしかった。昔、私が書いた「辻邦生さんへの最後の手紙」もファイルにはさんであった。ローソクはお二人が帰郷したときに使っていたという部屋に置かれていた。毎年、クリスマスには火を灯していますと弟さんからうかがい、ほっとした気持ちになった。


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佐保子さんが亡くなったあとに分けていただいたマイルス・デイビスの4枚組CDを聞きながら、これを書いている。「ふだんはスカルラッティをよく聞くわね。でも、休日にはマイルス・デイビスよ」と早口で快活におっしゃっていた佐保子さんの笑顔をおもいだす。いまごろ、あのローソクに火が灯っているかもしれない。


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京都でコンゴ・トークイベント「コンゴ河二人旅」

5月22日(日)に京都の堺町画廊さんでコンゴ・トークイベントがあります。関西の方、この機会にぜひ! なんとコンゴ料理イベントもあります。40名様限定なので、ご予約(下に予約用メールアドレスがあります)はお早めに(´Θ`)ノ

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コンゴ河二人旅
田中真知(作家・翻訳家・あひる商会代表)& 高村伸吾(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

アフリカ最奥部のジャングルを流れるコンゴ河。1991年にこの河を妻とともに丸木舟で下った田中真知が、21年の時を経て、こんどは若きパートナー(男)の高村伸吾とともに、ふたたびこの河を下った。手こぎの丸木舟とカオスの輸送船で下った1700キロの河の旅で世代の異なる2人が見たものは?


【日 時】 2016年5月22日(日) 14時半開場 15時開演
     15:00-17:00 トークイベント
     17:30-19:00 コンゴ料理で交流会


【会 場】 堺町画廊 phone+fax:075-213-3636 
〒604-8106 京都市中京区堺町通御池下ル
http://sakaimachi-garow.com/blog/
アクセス http://sakaimachi-garow.com/blog/?page_id=110


【内容】 
1 「コンゴ河、2度の旅から」(田中真知)20年余年の時をおいて、2度のコンゴ河下りで見えたもの、見えなくなったもの。
2 「そして旅はつづく」(高村伸吾)コンゴ河の旅をきっかけに文化人類学研究者となり、いまなおコンゴで調査をつづける高村が見たものは?
3 「バトルトーク・コンゴ河」(田中真知 vs 高村伸吾)いまだから話せる、とんでもなかった旅のこと。


【参加費】 トークイベント1500円/コンゴ料理で交流会1500円 (トークイベントだけの参加もオーケーです)
【ご予約・お問い合わせ】 congo.river.trip@gmail.com までメールでお名前、人数、交流会参加の有無をお知らせください。
 ※ 先着40名様限定 (席に限りがありますのでご予約はお早めに)


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パレスチナ映画「オマールの壁」を見た

パレスチナ映画「オマールの壁」を見た。原題は「オマール」(主人公のパレスチナ人青年の名前)なのだが、日本では「オマールの壁」というタイトルで公開された。外国映画の日本語タイトルには(「愛と悲しみのなんとか」とか)がっくりくるようなものが少なくないが、この作品については、見終わって、とても気の利いたタイトルをつけたものだと感心した。

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ネタバレになるので内容にはふれないが、壁で分断された現代のパレスチナが舞台となっている、ということから、政治的な意図や、告発的要素がつよい映画なのかなと思っていた。


たしかに、そういう見方はできる。実際、動画サイトにひんぱんにアップされるイスラエル兵によるパレスチナ人への過剰暴力や虐待の映像を重ね合わさずに、この映画を観ることは困難かもしれない。けれども、その点からだけ、つまり現在のパレスチナの現状報告という視点ばかりが強調されすぎると、この作品の魅力が平板になってしまう気もした。


なにより、この作品は映画として、とてもていねいにつくられている。アクション、それにサスペンスタッチのエンターテインメント性もある。パレスチナという時代と場所に限定されない普遍的なテーマもきっちり描かれている。それでいながら、ストーリー展開に予定調和的ながっくり感がない。


「壁」は人の移動を物理的に妨げるものであるとともに、人間同士の「信頼」にも分断をもたらしていく。壁によって、オマールやその周囲の人たちの内面にも壁が築かれ、それは容易に乗り越えられないものになっていく。その過程がこまやかに描かれている。オマールの壁という日本語タイトルが気が利いていると感じたのは、そのせいだ。


この作品はイスラエル当局の許可をとって撮影されているのだろうか。だとしら、イスラエル兵を絵に描いたような悪役として表現することに制限が入ることはないのだろうか(あとでパンフを見たら、すべてパレスチナ領内で撮影されたらしい。壁を登ることについては許可を取ったという)。


この映画だけではなく、イスラエル兵はしばしは機械のように冷酷で無慈悲な悪役としてカリカチュアされる。それはイスラーム武装勢力が暴力性に支配された野蛮な輩として描かれがちなのと同じだ。そういう描かれ方をされることにイスラエル当局が干渉してくることはなかったのだろうか。


「表現の自由」というのは悩ましい表現だ。中国や北朝鮮のように表現に対してあからさまに規制をかける体制もある。しかし、規制がないからといって自由だというわけではない。表現の自由が認められている、とは、その表現が体制に及ぼす影響が取るに足らないと見なされているからでもある。「文化人」がなにをいおうと、体制にほとんど影響はないという状況下での「表現の自由」をけっして喜ばしいとはいえない。むしろ、それはあからさまな表現の規制以上に厄介かもしれない。


上映後、主演のオマール役の俳優アダムさんが舞台挨拶に登場した。場内(とくに女子)がどよめいた。映画では坊主頭だったが、いまはウェーブのかかった黒髪で、しかもハンサム。スタイルもいい。

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席からの写真撮影はかまいません、というアナウンスがあるや、客席のあちこちから携帯やカメラがいっせいにとびだした。話しだしたら声もいい。受け答えもスマート。前の列の女性はずっと携帯をかまえたままだ。液晶画面に彫りの深い顔がアップになっている。何枚撮っているんだ。うーん、世の中はやっぱり不公平だ。。。

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春のアフリカ・トークイベント2つ  4月17日、18日

春たけなわですが、今月後半の 4月17日(日)と18日(月)にトークイベントを行います。<(˘⊖˘)ノ ❀

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その1ーー

4/17 「たまたまザイール、またコンゴ」田中真知さんトークイベント
【日時】4月17日(日)14:00~16:30くらい?
【場所】青猫書房(JR赤羽駅より徒歩10分)
【内容】赤羽にある子どもの本の専門書店「青猫書房」のギャラリーにおいてコンゴ河下りのスライドトーク。20年の時をおいてグローバル化以前と以後のアフリカを旅のリアルをじっくりお話しします。ハピドラム演奏付♪ なんと入場無料・予約不要。最大40名くらいまで。
【お問い合わせ】青猫書房 03-3901-4080


その2ーー

4/18 第3回SUTEKIカフェ 田中真知(旅する作家)vs 杉下智彦(アフリカ医療人類学)
【日時】4月18日(月)19:00〜21:00
【場所】社会起業大学コワーキング・スペース(東京メトロ有楽町線・麹町駅より徒歩3分)
【参加費】500円(先着60名)
【内容】杉下智彦先生は医師、医療人類学者、JICA国際協力専門員としてアフリカ20ヵ国以上の保健システム構築に取り組んで来られた方。ナイロビで出会い、話のあまりの面白さに時を忘れました。前半はわたしのコンゴ河スライドトークで、後半は杉下先生とのパネルトークの予定。
【イベントページより】アフリカのステキについて、田中真知(旅行作家)と杉下智彦(アフリカ医療人類学)がバトルトークをします!!コンゴ川丸木船下りから、ナイロビの呪術師、モザンビークの傭兵など、魑魅魍魎な宇宙へ誘います。
【お申し込み・お問い合わせ】 sutekiafrica@gmail.com あるいは、facebookのイベントページ
で受け付けます。下記チラシ参照↓

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* それぞれ別のイベントで、17日は初めての方におすすめ。コンゴ河の話をじっくり聞きたい方に。 18日はコンゴ河下りの話にくわえて、杉下先生のアフリカ経験もふくめて、いままでにない展開が予想されます。

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写真展「ザ・サプール」を見に行って思ったこと

上野でボッティチェリ展を見たあと、渋谷西武ではじまった茶野邦雄さんの写真展「ザ・サプール」へ。サプールとはコンゴのおしゃれな伊達男たち。昨年NHKの地球イチバン「世界一服にお金をかける男たち」で特集が組まれて一躍知られるようになった。


会場に入ったら、なんと今回の写真展でもモデルになっているブラザビルのサプールのセブランさんとバッタリ! 写真展にあわせて来日したらしい。いやー、かっこいい! ダンディで粋な着こなし。存在からリズムが沸き立ってくるようなエレガントな所作!思わずあひるさんとかっぱくんといっしょに記念写真を撮らせてもらった。

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写真展なのに撮影可。写真もとてもよかった。貧困や政情不安といった過酷な状況の中にありながら、優雅にファッショナブルによそおうことに人生をかける。武器をとって戦うのではなく、着こなしで勝負し、自分らしさを表現する。それがサップという生き方だという。


色鮮やかなファッションと背景とのギャップもいい。赤道直下のンバンダカから少し下ったザイール河(当時)沿いの村で、草原の道を歩いていたら、突然前方から白いスーツをまとった若者が歩いてきて白日夢を見ているような気がしたのを思い出す。いま思えば、あれもサップだったのだなあ。

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写真・茶野邦雄さん


写真展はとても盛況だった。でも、見に来ている人たちの中で実際にコンゴに行ったひとや、行く人はほとんどいないのではないか。そう思うと、すこし気になったのは、アフリカ人がみなサプールのような人たちだと思われてしまうことだった。


「貧しいけれども、明るく、人生をたのしんで生きている」。そのようなアフリカ人に対するステレオタイプな見方は昔から存在している。じつは、サプールが人気を集めたのは、そのような古典的なステレオタイプを、彼らにあてはめやすかったから、という理由もあったからではないか。

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写真・茶野邦雄さん


お金がなくても、ファッションに人生をかけて、その日をその日を思いきり楽しむ。それは一見彼らに対して好意的な見方のように思える。しかし、その視点からしか彼らを見なければ、彼らを取り巻いている貧困や困難がどのようなものなのか、ということには目が行かなくなってしまう。それは行きすぎれば、彼らは貧困でもだいじょうぶなのだ、だから貧困を解決する必要はないのだという乱暴な偏見や差別にもつながりかねない。


「コンゴ共和国の平均月収は2万5000円、約3割の人が一日130円以下で暮らしている」と会場のボードに書いてあった。だが、そもそも都市生活者と、それより数の多い農村部の人たちの収入とをいっしょにして出された平均を、個々の人びとの生活水準を測る尺度に使うことには無理がある。それぞれの人たちがどのようにして服を買うお金をやりくりしているのかはわからないが、「平均月収は2万5000円」といったリアリティのない平均値をあてはめてしまうと、彼らが個々それぞれに抱えている困難がいっしょくたにされてしまう。


写真が撮影されたブラザビルには行ったことはないが、サプールは数の上ではけっして多くはないだろう。都市生活者のほとんどは彼らのように生きているわけではない。少なくとも対岸のキンシャサでは犯罪や喧嘩はしょっちゅうだし、役人は粋やダンディとはほど遠いし、賄賂や腐敗はあたりまえだ。だからこそ志をもってサプールのような生き方をするひとたちが眩しく見える。


サプール人気がアフリカ人に対するステレオタイプの強化ではなく、かれらをとりまいている過酷な現実や、そのぬきさしならない状況の中にありながら、粋に、カッコよく、優雅に生きようとすることのすばらしさを、より深く理解するためのきっかけになるといいなと思う。


THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン

■3月29日(火)〜4月10日(日)※最終日は午後5時閉場※入場は閉場の30分前まで
■A館7階=特設会場
■入場料:一般500円、高校生以下無料

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カフカを読むとアタマがよくなる !?

インターネットによって、ひとは世界のさまざまな情報に自由にふれられるようになった。まちがいではない。しかし、現実に即していうならば、ひとは、インターネットによって、自分の好みの情報に特化してふれることが可能になったというほうが、より正確だろう。


自分の興味のある情報にアクセスし、共通の興味のあるひとたちをつなげる。それがインターネットの大きな力だ。一方で、それは、自分にとって関心のない世界や情報をスルーしたり、排除したりすることを可能にした。ネットの中では、しっくりする情報、しっくりする考え方、しっくりくる人たちとだけつながることができる。


人間の脳はしっくり来るものを好む。しっくり来る人たちとつながっていれば、承認欲求も満たされるし、居心地もいい。そこに居つづけることによって、自分の見方はますます強化されていく。逆に、居心地の良さをおびやかす情報には、不快感や抵抗感をおぼえる。そこで脳は、しっくり来ないものは「正しくない」「重要でない」と見なし、意図的に見ないようにする。そのうちに、それらはほんとうに目に入らなくなってしまう。


そうなると、ひとは見たいものしか見なくなる。見たいものしか見えないと障害物がなくなるので、本人には世界が広がったように感じられる。じつは視野が狭くなって、現実が見えなくなっているのに、そのことに気づかない。


危機が迫っていようとも、しっくり来る世界を守るために、壁を作ってその外を見ようとしない。そのような壁を、かつて養老孟司さんは「バカの壁」とよんだが、インターネットが広まったことによって、自分もふくめて、だれもが、ますますそうした状況に陥りやすくなっている。


じつのところ、その壁の中で一生、生きていけるのなら、それはそれで本人は幸福かもしれない。けれども、実際にはしっくり来ないもの、不快感や抵抗感をもたらす現実が、日々、刻々と起こっている。見て見ぬふりをしていても、ときに不快な現実はいやおうなく迫ってきて、自分たちの生命や生活をおびやかす。「バカの壁」はなんの守りにもならないどころか、ひとをとりかえしのつかない危険にさらしかねない。


作家のマーガレット・ヘファーナンは福島の原子力発電所の事故のときに起きたのが、このような深刻な事態に対する「意図的な無視や無関心」だったと著書『見て見ぬふりをする社会』(Willful Blindness)の中で書いている。現状の居心地の良さを保つためには、それをおびやかす事実には知らんぷりする。たとえ、そのために身を滅ぼすことになるとしても、秩序を乱しかねない不快なもの、抵抗のあるものは、自動反応的にあらかじめ視界から取り除かれる。


人間にとっては、自分がなにを見ているかよりも、なにを見ていないかに気づくことのほうが、ずっとむずかしい。自分が知らず知らずのうちに見落としていたり、スルーしたりしているものはなんなのか、それに気づくことが脳の新しい回路をつくることになる。


では、どうすればいいのか? ヘファーナンは「意図的な無視」のパターンに気づく手がかりを与えてくれるものとして、カフカの作品を扱ったある実験心理学の論文を紹介している(Connections from Kafka: exposure to meaning threats improves implicit learning of an artificial grammar. Proulx T1, Heine SJ. 2009)


ネットの記事(「カフカを読むと、あるいはデビッド・リンチの映画を見ると頭がよくなる」Reading a book by Franz Kafka –– or watching a film by director David Lynch –– could make you smarter)によると、ブリティッシュ・コロンビア大学の二人の教授が、2つのグループにカフカの『村の医者』という短編小説を読ませたという。


『村の医者』は邦訳にして10ページ足らずの小品だが、カフカの短編の中でも、とりわけ、とらえどころのない奇妙な作品だ。村の医者が激しい吹雪の中、10マイル離れた村の重病人を診察にいく話で、始まり方はノーマルなのだが、読んでいくと、どんどんわけがわからなくなっていき、なんどもツッコミをいれたくなるのである。

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実験では、この小説を一方のグループにはそのまま読ませ、もう1つのグループには、意味や辻褄が合うようにテキストをわかりやすく翻案して書き直したものを読ませた。それから、それぞれのグループに、文字列の中に隠されたある規則性(人工文法)のあるパターンを探させる、という実験を行った。人工文法学習というのは認知心理学の方法のようだ。要するに、テキストの文字列の中から規則性を探させるということらしい(といっても、よくわかっていない。。)


結果はというと、翻案したテキストを読んだグループよりも、オリジナルのテキストを読んだグループの方が、より多くの規則性を見出したという。


これはなにを意味しているのか? どうやら、意味がつかみやすいように翻案されたカフカのテキストでは、人は慣れ親しんだ認識のパターンの範囲内でしか、頭を働かせようとしないということらしい。


けれども、オリジナル・テキストを読んだ者たちは、その矛盾をはらんだシュールな内容を前にして、自分たちのなじみの理解や解釈が通用しないことに気づいて、新しい認識のパターンを作りあげようとした。それが、より多くの規則性の発見につながった、ということのようだ。

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予測不可能な状況下におかれると、それをなんとか理解しようとして脳は無意識に過去とはちがうパターンで働き始める。同様な効果はデビッド・リンチの映画「ブルー・ベルベット」についてもいえるという。観たことがあるひとならわかるだろうが、あれもふつうの映画だと思って見始めると、とんでもないことになる。。。


正直なところ、いまひとつよくわからない実験なのだが、「予測可能で」「居心地のいい」「わかりやすさ」の中にいると、脳はそのパターンを守る方向でしか働かず、結果的に見たいものしか見えないということになる、ということのようだ。


「心地よさ」や「直観」をだいじにする、「好きなことをする」というと、一般にはすばらしいことのようにいわれている。しかし、好きなことをつづけるには、心地よさばかりではなく、抵抗やモヤモヤがともなうのも事実である。居心地の良さを優先して、モヤモヤに向き合わないと、結局、「見たいものしか見ない」「見たくないものは見えない」という回路の強化でしかなくなる可能性もある。


モヤモヤやイライラや抵抗の中にこそ、見えていないものに気がつくきっかけがあるのではないか。だとすれば、コンゴ河を旅しながらカフカを読んだりすれば、イライラとモヤモヤで脳はいやおうなく活性化する、かもしれない。。。


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どこへも通じていない歩みのはてにーー映画「蜃気楼の舟」

渋谷のUPLINKで竹馬靖具監督の『蜃気楼の舟』という映画を観た。竹馬監督は1983年生まれの30代前半の若い監督で、この作品が2作目。かぎられた制作資金で、宣伝活動費はクラウドファンディングを用いた低予算映画ながら、出演者に舞踊家の田中泯、バレリーナの小野絢子、エンディングテーマが坂本龍一という豪華な顔ぶれだ。

映画には主人公の青年が生きている二つの現実が描かれる。ひとつはホームレスの老人らをだましてプレハブのバラックに住まわせ、生活保護費をピンハネする「囲い屋」としての現実。そこは嘘と暴力からなる猥雑で無感覚な世界だ。

もうひとつは青年の内面に展開する深い山中の湖や、海辺、砂丘、廃墟と、そこをさまよう自身の姿である。その深い静けさをたたえたモノクロームの映像は息をのむほど美しい。

ある日、青年の働く「囲い屋」に彼の母親が死ぬ前に姿を消した父親(田中泯)が現れる。父親は記憶をなくしていて、一箇所にとどまっていられず、すぐにどこかへいってしまう。母親の記憶を探し求める青年と、記憶を失った父との、あてどもない彷徨が淡々と描かれていく。

一見すると、社会の闇や不条理な現実を扱っているようだが、自分には、とてもプライベートな感覚でつくられた作品におもえた。だから感想も感覚的に書いてみる。

父親は「ここではない」とつぶやきつつ、歩きつづける、そして青年もまた出口のない山野をさまよいつづける。しかし、いくら歩きつづけても、その歩みはどこにも通じていない。カラーで描かれる現実の世界も、モノクロームの内面の世界も、たとえ色が反転することがあっても、「ベルリン」の天使が見出したような現実への脱出や再生にはならない。

どこまで歩いても、どんなにさまよっても、どこへも行けない。波打ち際まで歩いていった父親は、その先へ行けず砂の上で慟哭する。湖に浮かぶ小舟は無人で、火だけが燃えている。死は残されているが、それが出口である保証はない。

記憶を失ったホームレスは二重の意味で生から閉め出されている、というか生の中に閉じ込められている。「家の鍵」は見つからず、「本当の名前」が知られることもない。ホームレスでない者などいないし、本当の名前などどこにも存在しない。生があり、家があり、本当の名前があるという思い込みのうえに、この生がなりたっている。しかし、そんなものはなく、どこにも通じていない山や森や砂漠だけがそこにある。

父親に扮する田中泯が路上で舞い、音のない廃墟でバレリーナの小野絢子が踊る。それはどこへもつうじていない彷徨の中での悲劇的な舞いにもかかわらず、このうえなく自由で美しい。むかし聞いたスーフィー(イスラーム神秘主義者)の言葉を思い出した。「神に近づくために舞うのですか」と聞かれたスーフィーが、「ちがいます、あらゆる束縛から放たれるとき、ひとは自然と舞いはじめるのです」と答える。彼らの舞いにも、そんな自由を感じた。ただし、それは鎖から逃れて得られる自由ではなく、鎖につながれていながら鎖が無意味化してしまうような自由だった。

個人的には気になる点もあった。ホームレスを搾取する貧困ビジネスの描き方が類型的だったり、科白がぎこちなかったり、焦点があいまいに感じられたりした。だが、上映後のあいさつで竹馬監督が「物語性をなるべく廃して、キャラクターもはっきりさせないよう意識した。展開で見せたり、感情移入させたりということを避けたかった」という内容のことを語ったので、なるほどと思ったが、逆にそうした意図がつよいせいで、かえって作為的に感じる部分もあった。といっても、それはたんなる好みの問題にすぎないが。

見終わったあと、下のカフェでこの映画を紹介してくれた新居昭乃さんと話していると(昭乃さんは竹馬監督の前作の音楽を担当したそうだ)、たまたま監督がひとりでカフェに下りてきたので、作品鑑賞直後に監督と直接話をするという僥倖を得た。

映像的にはタルコフスキーのような静けさはあるのだけれど、ひとつのエピソードにテーマが濃密に集約されていくというかんじは受けなかった。そんな話をすると、「タルコフスキーは自らの戦争経験や民族性やロシア正教といったものの深い影響のもとに映画を作っている。けれども、自分には正直いってそういうものがない。それが自分にとっての現実」という内容のことをおっしゃった。

焦点を結ばない、とらえどころのない希薄さというのは、おそらく監督自身が感じているリアリティなのかもしれなかった。ともすれば再生やカタルシスを描きたがる作り手と、それを見たがる観客に対して、再生が見えない、再生などない、そもそもだれにも本当の家などないし、みなホームレスだし、どこにも行けないし、死すらもあてにならないということをこの作品はつきつける。しかし、その焦燥と絶望の中にありながらもなお、美は存在しうるとすれば、それはひとつの救済なのかもしれない。


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荒俣宏さんのこと

2つ前のエントリーでも書いたが、昨年12月にNHKのマサカメTVという番組に、あひる商会の発明?が取り上げられた。取材を受けた後、番組のゲストが作家の荒俣宏さんだと知って焦った。すっかりご無沙汰しているが、荒俣さんには若い頃、たいへんお世話になったからだ。

いま荒俣さんは、どんなイメージで見られているのだろう。テレビのバラエティー番組の一風変わった物知りコメンテーター。すこし年配の人なら映画化もされた『帝都物語』の原作者として。けれども、自分にとっては荒俣さんは、知の世界の凄まじさや壮絶さ、読書というものの恐ろしさを垣間見せてくれた途方もない知の巨人である。若いときに荒俣さんを知ってしまったことで、自分が本好きだなどとは、けっしていえなくなってしまった。

その理由を知りたければ、荒俣さんがかつて平凡社から出した『世界大博物図鑑』全5巻(1巻『蟲類』、2巻『魚類』、3巻『両生・爬虫類』、4巻『鳥類』、5巻『哺乳類』)を図書館で見てみればいい。このとんでもない本の凄まじさについて書こうとすると、それだけで終わってしまうのでここではふれないが、平凡社に彼が泊まり込みながら書いた一冊400ページ×5巻のこの希有な図鑑は、荒俣さんの翻訳や編集や監修ではなくて、荒俣さんの「著書」なのである。

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彼はこの5巻の図鑑をたったひとりで書いた(共著ではない)。その内容は生態の記述にとどまらず、名前の由来、発見史、絶滅記録、神話・伝説、民話・伝承、ことわざ、天気予知、美術、文学など、文化や歴史面を網羅した、文字どおりの博物誌である。また、そこに付せられた数百点の彩色図版は18、19世紀のヨーロッパの博物学黄金期に制作された、とんでもなく美しい博物画だ。それらは荒俣さんがオークションなどでこつこつと集めた自分の所蔵するコレクションから複写されたものである。このような企画を考え出し、しかもそれを書き上げることができるのは日本はおろか世界でも荒俣さんくらいしかいないのではないか。

荒俣さんと知りあったのは、その『世界大博物図鑑』も『帝都物語』も書かれる前の1980年頃だった。荒俣さんは30代の半ばくらいで、サラリーマンをやめてまもないころで、幻想文学の翻訳者・紹介者として、すでに知る人ぞ知る存在だった。当時大学生だったぼくは、ひょんなことから荒俣さんがメインとなって書いていた『世界神秘学事典』という本の編集の手伝いのアルバイトをすることになった。

いま思えば、『世界神秘学事典』は、世界のすべてを網羅し記述したいという荒俣さんならではの博物誌の草分けだった。神秘学と銘打たれているが、内容は古代エジプトから現代のポップカルチャーにいたるまでの古今東西の宗教・哲学・科学・芸術などの有機的でダイナミックなつながりを浮かび上がらせたもので、いま読み返しても圧倒される。すでに絶版になって久しいが、ここに目次の引用がある。600ページ近い内容の7割くらいは荒俣さんが書いていたように思う。

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編集のことなどなにも知らなかったにもかかわらず、原稿の整理をしたり、ほかの執筆者のもとに原稿をとりにいったり、電話で荒俣さんの読み上げる原稿を書き下したり、図書館をまわって図版を集めたりするのは楽しかった。どさくさにまぎれて、足りない項目の原稿を書かせてもらったりもした。大学の後輩ということもあってか、その後の数年、荒俣さんのほかの本の手伝いをさせてもらったり、仕事を紹介してもらったり、原稿の書き方を教えてもらったりした。

荒俣さんは、いつも両手にぶら下げた大きなショッピングバッグに分厚い洋書や稀覯本を大量につめこんで、そのバッグを蹴飛ばすようにしながら編集部にやってきた。ある晩、ラーメンかなにかをいっしょに食べたあと、荒俣さんが「それでは私はアンデルセンの翻訳をするので、これから上高地に行ってきます」といってショッピングバッグを蹴飛ばしながら夜の街に消えていった。

その後ろ姿を見送りながら、アンデルセンの翻訳には上高地のようなすてきな場所がふさわしいのだろうな、と一瞬思ったが、こんな夜遅くに上高地への電車があるはずがない。あとで聞いたら、なにいってるんですか、喫茶店の上高地ですよ、といった。

その頃、荒俣さんは週のうち5日位は深夜喫茶で夜を明かしていた。自宅は狭山にあったのだが、終電が早いのと、家訓で借家住まいは御法度とのことで、深夜になるとマイアミとか上高地といった都内の喫茶店でプリンアラモードやフルーツパフェを食べながら、夜が明けるまで読書や翻訳や原稿書きをしていた。あの途方もない博覧強記とダンセイニの翻訳のような幻想性あふれる美しい訳文は、深夜喫茶から生まれたのである。

荒俣さんの狭山の自宅に原稿をとりに行ったことがある。文字どおり本に埋もれた家だった。どれだけ価値があるかわからないような18、19世紀の博物学関係の稀覯本が雑然と積み重ねられていた。本棚を買う金があったら本を買ったほうがいいという。玄関の前に、近所のつぶれた本屋からもらったという木のカウンターがあって、その上にも本が山のように積み重ねられていた。

部屋には水槽が置かれていて、最近手に入れたというマツカサウオ(イザリウオだったかもしれない。。)がいた。いま思えばエサはどうしていたのだろう。サラリーマン時代に書いていたという絵日記や少女マンガも見せてもらった。じつは漫画家になりたかったのだという。帰る時間になると、帰りのバスの時間をすらすらと教えてくれた。バスの時刻表は頭に入っているという。学生時代は教科書も丸暗記していて、知り合いの電話番号も頭に入っていたという。記憶の人なのである。

荒俣さんと編集のひとたちといっしょに沖縄や八丈島へ行ったことがある。荒俣さんは魚の採集が好きで、よくひとりで八丈島へ魚を捕りに行っていた。沖縄の座間味へ行ったときだった。荒俣さんは海が見えると、宿に着くのも待ち切れずに海水パンツに着替えて、磯足袋を履いて、タモ網をもって海へ入っていく。海水パンツはパツパツでいまにもはち切れそうだった。聞けば高校生のときからはいているものだという。水中メガネも、おもちゃ屋で売っていそうな青い水中メガネで、これも子どものときから使っているという。

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海に入っていく荒俣さんをぽかんと見ていると、なにやっているんですか、遊びに来たんじゃないんですよ、といわれ、あわてて着替えて海に入る。といっても泳ぐわけではなく、荒俣さんの魚獲りの手伝いをするのである。膝くらいの深さの浅瀬で、水中メガネで海の中をのぞき、魚の現れるのをひたすら待つのだ。

魚が現れると荒俣さんは、たちどころにその名前や特徴を教えてくれた。ホンソメワケベラとニセクロスジギンポの見分け方も教えてくれた。めあての魚が現れると、ぼくが魚を追いこんで、荒俣さんがそれをタモ網ですくおうとする。でも、初めてなので、うまくいかない。すると、なにやっているんですか、ちゃんと追わないから逃げてしまったじゃないですか、魚も追えなくて、どうするんですかと叱られる。それをずっとつづける。休憩なしで、何時間も入りっ放しである。

夕食のあと、他のひとたちが泡盛でほろ酔いになっている横で、荒俣さんはジュースを飲みながらテレビのプロ野球中継を横目で見つつ、なにかの原稿を書いている。民宿のおじさんが踊りを踊ったりして、幸福な沖縄の夜がふけていく中、荒俣さんがぽつりと「グノーシスというのは、この世が悪であると見る思想です」といった。その後も、ときどきテレビのプロ野球中継にコメントしたり、われわれの会話に加わったりしながら、原稿に向かっていた。

翌朝はだれよりも早く起きて、さあ、海へ行く時間ですという。ぼくがぐずぐずしていると、いつまで寝ているんですか、四の字固めをかけてやります、といわれて、寝ぼけた状態で四の字固めをかけられて起こされ海へ向かう。浜から「朝ごはんですよ」と声がかかるが、海に顔をつけつづけている荒俣さんには聞こえない。

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好きなことに無心に没頭している荒俣さんは、エネルギーにあふれて、とても生き生きして見えた。それでも当時は口癖のように「早く死にたいです」とか「燃え尽きたいです」という言葉を口にしていた。そんなこといわないくださいよ、といっても、「いえ、自分は早く死ぬために仕事をしているんです」という。ただその口調に、あまり悲壮感は感じられず、その言葉を、どう受けとめればいいのか困った。

荒俣さんの該博な知識に感嘆する一方で、彼が『世界神秘学事典』で扱ったようなテーマを生き方や思想の問題としてとらえたいと感じていた当時の自分にとって、荒俣さんの博物誌的なとらえ方には、戸惑いを覚えることもあった。神秘学、あるいオカルティズムというのは、表層的な現実の奥に普遍的な真理を見出すことによって、自己とはなにか、生きるとは何かという問いに答えるものではないかと思っていたからだ。


けれども、荒俣さんの関心は、そうした普遍的な真理だけにとどまらず、そこに向かう過程で生まれた誤りやウソといった想像力の所産にも向かっていた。むしろ、そちらのあだ花的なもの、奇人や奇想への視線こそが荒俣さんのユニークな世界をかたちづくっていた。『世界大博物図鑑』には実在する生き物にとどまらず、人間の想像力が生み出したガルーダのような幻想動物も取り上げられている。


誤りやウソを切り捨てるのではなく、それらも含めて人間の生み出した豊かさとしてとらえようとする。真理や正しさで世界を区切るのではなく、真偽や善悪をこえて世界を見ようとするとき、秩序と見えたものがじつは混沌であり、普遍と思われていたものが、じつは例外に満ちていることが見えてくる。その世界の豊饒さへの驚きと賛嘆こそが荒俣さんを突き動かしているように見えた。


本の虫だけに荒俣さんは極度の近視だったが、メガネはかけていなかった。メガネを買うお金があったら本を買ったほうがいいと考えていたのか、それともほかの理由なのかはわからない。本を読むときはページに顔をくっつけるようにして字を追っていた。ところが、あるとき会ったらメガネをかけていた。ああ、やっとメガネをかけることにしたんだな、と思ったが、よく見ると、片方のレンズが異様に分厚い。


「あれ、メガネをつくったんですか?」と聞くと、


「いえ、わたしが近眼なのを見かねて、知り合いの編集者が使わなくなった自分のメガネをくれたんです」という。


「ひとのメガネをもらったんですか・・・」


「ええ、おかげでよく見えるんですけど、左右の度がちがいすぎて、長くかけていると頭が痛くなってくるんですよ」


「・・・」


荒俣さんはしばらくそのメガネをかけていたが、さすがにつらくなったのか、その後、自分でメガネをつくったようだった。


荒俣さんは偉ぶったり、先輩風を吹かしたりするようなことは、いっさいなかった。それでも、ぼくが社会性に欠けているのが目にあまったのか、「世の中甘くないんです」「苦労しなくてはいけません」とか「どう考えても自分より劣っている人間から、徹底的にバカにされるということも必要なんです」などとちょくちょく説教された。数年たった頃、「ちゃんとサラリーマンをしなくてはいけません」といわれて知り合いがやっている小さな会社を紹介してくれた。


会社では企業のPR誌の制作の手伝いをした。自分ははっきりいってダメ社員だったが、社長さんはやさしく寛容な方で、マチくんはおもしろいねといってくれた。でも、その顔はいつもちょっとひきつっていた。事務所には仕事と関係のないユニークな人たちも出入りして、ときどき荒俣さんもやってきた。荒俣さんが夜遅くコピーをとりに行くというので、コピー機の操作方法をマンガに描いて置いておいたことがある。翌朝出社したら、荒俣さんが、コピーをとった顛末をマンガに描いて置いてあった。どこかにとってあるはずだが見あたらない。ちょうど『帝都物語』の連載をされていたころだった。


結局、ぼくはその会社を1年くらいでやめてしまった。その後も仕事でときどき会うこともあったが、気まずさもあって、あまり連絡をとることもなくなっていった。それから『帝都物語』がヒットして、荒俣さんはすっかりメジャーになっていった。


何十年ぶりかで、先日、テレビの画面で再会した荒俣さんはVTRに写し出されるぼくを見て、「あ、タナカマチ、知ってる」とつぶやき、心なしかニコニコしているように見えた。それを見て、こちらも心なしか、うれしくなった。


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