雑記

エジプトの禁煙広告

禁煙を何ヶ月か続行中という友人から、「毎朝布団の上でのたうつほど身体が気持ちよい。赤ん坊に戻ったように体がよく動く」というメールをもらった。タバコは吸わないので、その感覚はよくわからないが、すこしうらやましい気もする。いったい、いまなにをやめたら、そのような爽快感が得られるのだろう。


何カ月か前に奥さんが、めまいが数日続いて病院に行った。原因はわからなかったが、筋肉の緊張をとるために、とのことで弛緩剤を処方された。ところが、弛緩剤を飲んでしばらくすると、彼女が涙ぐんでいる。どうしたのかと訊くと、呼吸がとても楽なのだという。いままでだって自然に呼吸していたつもりだったのに、こうして筋肉がゆるむと、もっと楽に呼吸できる。若くて、もっと健康だった頃、自分はこんなふうにすてきに呼吸していたんだったと思い出したのだという。


タバコの話に戻る。この前、エジプトに行ったとき空港の免税店で見たタバコのパッケージにびっくりした。カートンの箱にもパッケージにも酸素マスクをした男の写真がついている。

Rimg0010

クリックで拡大


説明書きによると、肺ガンの末期患者の写真だという。照明のせいで色がややちがって見えるが、顔は土気色でなんとも痛々しい。パッケージの下半分がこの写真である。これを吸うとこうなるぞということなのだろうが、ここまでやるとはなあ。タイやEU諸国では、ガンに冒された肺の写真がパッケージに印刷されているものもあるらしい。同じ嗜好品でもアルコールとは扱いがずいぶんちがう。アルコールによる死者や中毒者だって相当数にのぼるはずだが、ウイスキーやワインのラベルに肝臓ガンの末期患者や、肝硬変の病変の写真が使われることはないだろうな。


いずれにしても、年をとってくると、なにかを摂取することによって得られる爽快感より、なにかをやめることで得られる解放感の方が大きそうだ。太極拳を何年かやっているのだが、その基本の一つは力をぬくことだ。力をぬくといっても、全部ぬいたらふにゃふにゃで立っていられない。要は、からだを動かすうえで、その動作に必要のない、よけいな力をいっさいぬくように意識する。けれども、それがとてもむずかしい。自然体といっても、かならず長年の癖で、いろんなところに力が入っていて、そうかんたんにはぬけない。それがなにかのきっかけですっとぬけると、それこそ「赤ん坊にもどったように」からだが楽に動くことがある。タバコをやめたあとの感覚というのも、そういうのに近いのだろうか。

| | コメント (2)

セバスチャン・サルガドの「アフリカ」

このところ写真展の話がつづく。東京都写真美術館でやっているセバスチャン・サルガドの「アフリカ」を見た。サルガドが写真の世界ではとても有名な人だとは知っていたし、作品もなんどか目にしていたことはあったが、まとめて見たのは初めてだ。すでに国際的な評価の定まっている人だし、実際の写真もみごととしかいいようかないものなので、それ以上なにをかいわんやなのだが、やはり美しかった。美しいなどというべきではない難民キャンプや飢餓の写真もあるのだけど、それでも、美しいという言葉をつかいたくなる誘惑をおさえられない写真だった。

Rimg0003


静かな画面からこちらを見つめる難民の子どもや孤児の写真の表情がじつにいい。いいなどというのは不謹慎なのはわかっている。もし、目の前にこの子がいたら、とてもそんな気にはなれないだろうけど、こうして写しとられて、時間と空間から切り離された一枚の肖像写真として対峙してみると、この写真が撮影されたときにこの子が置かれていた境遇から距離を置いて、その表情からたちあがってくる存在感の深みに魅入られる。悲しみや、心細さだけではなく、悲しい中にもある尊厳や力強さといった相反するものが伝わってくる。そう、尊厳かもしれない。


サルガドが撮影した70年代から90年代にかけてのアフリカは、干ばつや内戦といった、この大陸ならではの悲劇を見つめたものが多い。それらはテーマとしてはすっかり手垢のついた「弱者としてのアフリカ」の典型的イメージではあるのだけれど、サルガドの写真から、そうした写真につきまといがちなあざとさは感じられないのが不思議だった。それがなぜなのか、孤児の少年の肖像をみていて、はたと思いあたったのは、そこに尊厳を感じるせいかもしれなかった。


サルガドの写真が美しいのは、その絵のような構図の妙にもあるように思う。エチオピアの難民キャンプで毛布をまとって立つ難民たちの写真があったが、その人物の配置がまるであつらえたように遠景、中景、近景と配されていて、しかも、その体の向きや姿勢が、まるですぐれた西洋の画家が描いたかのように象徴的なものとして直観されるのだ。先日、ゴーギャンを見に行ったのだが、晩年の大作に描かれた人物像がそれぞれ、過去・現在・未来とか、理想や現実、生と死、若と老いといったテーマを現しているように、サルガドの写真もまた、その人物の配置や姿勢に凝縮された象徴的な世界観を思わず感じてしまう。それが意図的かどうかはべつとして、見つめていると、おのずとそうした思考がみちびかれ、想像が広がっていく。


たぶん、よくいわれていることなのだろうが、ジャーナリスティックな報道写真でありながらも、これほどの芸術性をかねそなえた写真という意味で、サルガドは希有なのだろう。たとえばゴヤが時事的なことをテーマに描いた絵画をジャーナリスティックと呼んでいいのかどうかわからないが、サルガドの写真にはそれと同じように、写真に込められた生々しい具体的な事件や情報を知らなくても、普遍的なものを訴えかける力がある。それはやりすぎると、コマーシャルや広告の世界に近づきすぎてしまうが、そのぎりぎりのところで、サルガドの写真はとどまっている。


2000年代になってから撮影されたのは、スーダン南部のディンカ族や、ナミビアのヒンバ族やナミブ砂漠など、それまでのような、どちらかといえば時事的で、きなくさいテーマとは一見異なる対象を扱っているように見えるが、不思議とそこから受ける印象は、それ以前に撮影された写真とそれほど変わらない。それは、やはり彼の写真の底流に尊厳や気品といったものが感じられるせいかもしれない。


出口近くに、2006年に撮られたというスーダンのディンカの写真(チラシにもなっている)がかけられている。前にも書いた気がするが、ぼくがアフリカへひかれたきっかけの一つは、野町和嘉が撮ったディンカの写真だった。それは80年代の初め頃、つまりいまから25年くらい前に撮られたものだが、サルガドの写真でも、それとほとんど変わりのない風景がうつしとられていることに驚きをおぼえた。椅子にすわったディンカの若者の写真も、凛とした気品がつたわってきて、じつにいい。


Rimg0001


むろん、四半世紀の間にスーダンは大きく変わった。南部スーダンの首都ジュバは、南北の包括平和協定の締結後、流入してきた国際機関や中国企業などがもたらした外貨のせいで、いまやジュバのホテルの値段は最低でも150ドルから200ドルという、いびつな状態になっている。ディンカが暮らしているのは、ジュバから数百キロも離れたところだが、それでも近年のさまざまな経済的・政治的変転とは無縁ではないはずだ。こうしてウシを追いながらも、近くの町では携帯電話をもっている若者がいるかもしれない。それでも、ここにはなにか変わらない価値のようなものが、いまだに存在すると信じさせてくれる写真だった。

写真展の図録に西原理恵子さんが寄せた文章が載っていた。立ち読みしただけなので正確には覚えていないが、サルガドの写真は男の子にとっては毒だ、自分もアフリカへ行けばこんな写真がとれるんじゃないかという錯覚に陥ってしまい、人生を踏みあやまった人もいるだろう、というようなことが書いてあって、ああ、そうだよなあと思う。でも、サルガドのようになんか撮れないし、撮れなくたっていいのだ。ぼくがスーダン南部で撮った写真は、なぜか撮られる人たちが、ふだん着ないような一張羅を着て、おめかしして、みんな整列しているというものが多いのだが、そういうのも、あとで見ると、なかなか楽しいぞと思うのである。


| | コメント (0)

SING FOR DARFURに思う

先月になってしまったが、慶応大学の日吉キャンパスで、スーダンのダルフール紛争をテーマとした「SING FOR DARFUR」(シング・フォー・ダルフール)という映画の上映イベントがあった。ダルフール紛争とは、スーダン西部ダルフール地方で現在も進行中の大規模な紛争。スーダン政府軍および政府に支援された民兵組織が、ダルフールの非アラブ系住民への大量虐殺を行い、30万人以上が殺され、270万人が家を追われたといわれ、世界最悪の人道危機ともいわれている。


初夏に20年ぶりにスーダンを訪れたこともあり、ダルフールという重いテーマを映画でどう取り上げているのか興味があった。監督はオランダ人で非営利作品だという。映画の紹介を見ると、よくある戦争映画とはちがうつくりのようだった。上映後にゲストスピーカーをまじえてのトークセッションもあるという。


この映画には、ダルフールの映像はいっさい出てこない。戦闘や虐殺のシーンも、兵士や飢えた子どもの姿も出てこない。ここで描かれるのは、バルセロナのとある一日だ。その日、バルセロナで「SING FOR DARFUR」というチャリティ・コンサートが開かれる。このコンサートを見に来た観光客のバッグがひったくられ、そのチケットを買い上げたヤクザが、さらにそれを高値で転売する。このチケットをめぐる人びとや、そのほかのダルフールとは関係のない普通の人びとの私的なドラマを、カメラは淡々とドキュメントタッチ(実際はフィクションだけど)で見つめていく。

Rimg0001

戦争という非日常を直接描くのではなく、ダルフールのことなどまったく無関心に都会で暮らすわれわれ自身を描くことで、この映画は陰画のようにダルフールの存在を、自分たちの内面の問題として浮かび上がらせようとする。ダルフールは、これらの人びとの日常の中に、一瞬さしはさまれる偶然の背景のように、ひかえめに、ときにシンボリックに描かれる。凄惨な映像や、わざとらしい人間ドラマにすっかり慣れっこになったわれわれにとって、この映画のアプローチはある意味、新鮮である。モノクロームの洗練された映像も、クールなエレクトロニカ系の音楽の使い方も、この作品のアートとしてのオリジナリティを感じさせた。


しかし、終始スタイリッシュにまとめられた、この作品からダルフール問題の切迫感はほとんど感じられなかった。映画の中にダルフールの現実について考える素材はまったくといってよいほど与えられていない。唯一、終わりのほうでタクシー運転手の口から、原因は石油にあるという言葉が断片的に語られるくらいだ。


この映画がアートとしてつくられたというのなら、それでもかまわない。自分の世界に没頭するあまり外部が見えなくなっている現代人を揶揄し、小さな良心やささやかな善意を描いているという意味では佳品といえる。でも、ここで描かれているのは先進国の人たちの心の空洞化であって、ダルフールはその手段でしかないように思われた。これなら、べつにダルフールでなくたって、イラクでもアフガニスタンでもパレスチナでも、どこだってかまわないのではないか。


けれども、監督や主催者側は、この映画をきっかけに、遠いダルフールで起きていることに関心をもって、自分なりにダルフール紛争について調べたり、なにができるか考えてみよう、といいたいらしかった。でも、それをいうならば、もう少し映画そのものの中で、監督のダルフールに向きあう姿勢が鮮明に出るようにするとか、あるいは、なぜダルフールなのか、監督の到達した結論の範囲で、もっと表現すべきではないだろうか。つっこみの足りないところは観客に丸投げして、エンドロールにジョン・レノンの「Love」(のカバー)を流して、愛とか自由でお茶を濁すという終わり方も、納得のいくものではなかった。


だが、びっくりしたのは、上映後の「ゲスト」を交えての「トークセッション」だった。映画の内容はともかく、これをきっかけにダルフールについて考えるのは悪いことではない。ところが、「ゲスト」として登場した人の中にダルフールやスーダンの現場を知る人がだれもいない。企画者の一人である慶応のメディアデザイン研究科の先生と、興行主である広告代理店の人、それに二人組のお笑い芸人、そのほかに声優さんとかミュージシャンとかである。なんで、これがダルフールについてのトークセッションなのか? 


しかも、いきなり先生が「みなさん、ステージ上のスクリーンに、みなさんのケータイからツイッターでこの映画についての感想を書き込んでください」という。ツイッター? なんで、そんなの使わなくてはならないのだ。だいたいこっちはウイルコムだし、ひらがな入力だし、ツイッターもよくわからない時代遅れのオヤジだぞ。


まあ、それはさておき、会場に集まった人(学生なのか若い人が多かった)たちは、すくなくともダルフールになにがしかの関心を抱いて、ここにやってきたはずだ。それなら、せめてダルフール紛争とは、どういうものなのか、ほかの紛争となにがちがうのか、かんたんでもいいので、なにかしら説明があってもいいと思うのだが、それもない。スクリーンにはツイッターなんかより地図くらい載せろよと思うのだが、結局ダルフールがどこにあるかも説明されない。そういうことは家に帰ってから自分なりに調べましょうということなのか。なら、なんのためのトークセッションなのか。主催者側は上映の輪を広げていって、ダルフールについての関心をムーブメントへと高めたいと考えているらしい。それならなおさら、その後のフォローがだいじなのではないか。


「イベント」ではオランダにいる監督とオンラインで映像をつないで質問したりというコーナーもあったが、最先端メディアを使うとこんなことだってできちゃうんですよというパフォーマンス以上に実のある内容とも思えなかった。そのあと、広告代理店の社長さんが出てきて、この映画の日本での上映に合わせてつくったTouch the Skyというキャンペーンソングが発表される(おみやげにCDもくれた)。「We are the World」のダルフール版ということのようだが、こんな展開になるとは思いもよらなかった。


ステージにはアメリカ人の黒人の女性ゴスペル歌手が出てきて、スクリーンに大写しされるアニメ映像に合わせて、その歌をうたいはじめる。歌は「愛を広めよう、関心を持とう、心を開いて声をあげよう」といったような内容のポップスで、観客も椅子から立たされて手拍子をうながされる。いったい、なんなんだ、これは。展開が早くて、ついていけない。歌はうまいのだが、このアニメ映像といい、ベタな歌詞といい、ダルフールについて考えるうえでなにか関係あるのか。でも、会場の若い人たちはけっこう楽しそうに手拍子なんかしている。おい、若者たち、そんなかんたんにのせられていいのか? 楽しけりゃなんでもいいのか? おかしいなとか思わないのかよ。


まわりを見回していると、歌手がうたいながらステージから降りてきて、こっちに近づいてくる。そして「イェー」とかいってマイクを向けられる。仕方なくこっちも「イェー」と応えてしまい、ちょっと情けなくなる。そのときようやく、やっとわかった。これは映画のプロモーションイベントなんだ。ダルフール紛争について考える場などでは、まったくないのだと。


プロモーションイベントであっても、それがアクションを起こすきっかけになるのならいい。しかし、現実に、これをきっかけに、はたしてどれだけの人が家に帰ってダルフールについて調べて、その関心を持続させて、アクションへとつなげるだろう。たしかに、ネットで情報を検索くらいはするかもしれない。しかし、ダルフールの問題はとてもわかりにくい。だからこそ、イベントをするなら、ノリにまかせた宣伝やプロモーションではなく、もう少しつっこんでダルフールのリアルを伝える工夫をしてほしかった。


愛を持ちましょう、関心を持ちましょうという言説は、さんざん消費されてきた決まり文句だ。20年以上前のライブエイドのときも、愛を広げよう、手をさしのべよう、私たちはみな同じ人間だ、関心を持とうというメッセージが大々的に発信された。その結果はといえば、大量の飢えた子どもたちの写真が出回り、アフリカといえば悲惨な大陸というステレオイメージを人びとの間に定着させることになった。でも、紛争は、愛が足りなくて起きたわけでもなければ、愛があれば解決するような問題でもない。ダルフールで殺戮の責任者として国際刑事裁判所から訴追されているスーダンの大統領だって、「自分は愛と平和を愛する」というようなことを述べているのだから。


ちなみに、このイベントの翌週くらいに、東大の学生による企画で、ダルフール・ジェノサイドについて、外務省の担当者やUNHCRやNGOの専門家、研究者らによるパネル・ディスカッションがあった。これはとても内容が濃く、ダルフール紛争についての流布しているイメージをひっくりかえすような触発的な刺激に満ちていた。関心をうながすというのは、こういうことではないのか。


東大でのパネル・ディスカッションは難解な話だったわけではない。むしろ、われわれが、外部からこの紛争とを見るときにおちいりやすい誤解がなんであり、それにたいして、どのように考えていけばいいかというヒントがちりばめられていた(それについては12月頃に出る次号の「旅行人」誌に書きました)。慶応のイベントのあとで、この東大のパネル・ディスカッションを聞いて、そのギャップにがっくりした。慶応は母校なので、「さすが東大」などとはいいたくないけれど、慶応ももうすこし、がんばってくれい。

| | コメント (2)

小瀧達郎写真展@ギャラリー・バウハウスを見る

今年の初めに横谷宣さんの個展をした神田のギャラリー・バウハウスで、オーナーの小瀧達郎さんの写真展が開催されている(10.20-12.26)。隅々まで小瀧さんの美意識で統一された、あの硬質な空間に彼自身の写真が展示されたらどんな雰囲気になるのだろうかと期待しながらギャラリーに足を運んだ。


穏やかな静謐さの内に緊張をはらんだ美しいモノクローム写真が展示された地下の空間が無類に心地よい。彼がいくたびとなく訪れたイギリスの海辺の保養地ブライトンを撮影した写真からはノスタルジックでありながら、どこかこの世の風景ではないような静けさが満ちわたっている。

 
ちなみに、これはブライトンの若者たちと警官隊との間に緊張が走っている場面だそうだ。ブライトンは1960年代にモッズ文化の中心となったところ。ぼくは見ていないのだが、「さらば青春の光」という映画の舞台にもなっている。

091020_kotaki
©Tatsuo Kotaki

小瀧さんの写真は、いずれも目を近づけると、まるでそこに無限が封じ込められているかのように、緻密にたたみ込まれたディテールがどこまでも深く見えてくる。印刷やモニターではけっして表現できない、その細部の圧倒的な深み。写真とは目に映るものをとおして、そこに映らない空気や香りを伝えるものだということが、精妙な化学反応によってつくられる細密なモノクロームの陰影から匂い立ってくる。この世界を知っているからこそ、写真家は暗室にこだわるのだろう。


小瀧さんの写真を初めて目にしたのは80年代後半の「マリ・クレール」誌上だった。いまは亡きスーパーエディター安原顕さんが編集していた頃のマリ・クレールはバブルの上げ潮もあったのだろうが、よくも悪くも知や文化というものがファッショナブルになりうるという幻想を与えてくれた。その中にあって、小瀧さんの静かな写真には、そんな派手派手しい時代にからめとられず、人のささやかないとなみを、距離をおいて、そっといつくしむようなやさしさが感じられた。

 
この写真もいいなあ。ピンクフロイドのアニマルズのジャケットにも出てくる工場だけど、なんだか神殿のようだ。

091020_kotaki2
©Tatsuo Kotaki

いまは写真家にとって幸福な時代ではない。安くて高性能なデジカメの登場によって写真表現のハードルは低くなり、だれでもそれなりの写真を撮れるようになった。それは悪いことではないけれど、そのことが写真なんてだれでも撮れるのだという思い込みを流布させ、プロの撮った写真も素人の撮った写真も同じレベルで語られるようになってしまったような気がする。


写真はシャッターチャンスがものをいう、という面もたしかにある。だがその一方で、途方もない手間と気の遠くなるような試行錯誤の果てに、やっと満足のいく一枚のプリントができあがるという世界も存在している。そうした手間と時間をかけないことには、けっして表現できない世界というのがある。それはほんのわずかな表現の綾なのかもしれないが、そのかすかなニュアンスに執拗にこだわり、そのより深い表現を可能にするかどうかが、おそらく職人としての写真家の存在意義なのだろう。


印刷媒体とモニターでしか写真にふれる機会がなくなっているいま、そうした微細な、しかし厳然としたちがいを感知する感覚をやしなうには、やはり質の高いオリジナル・プリントにふれることだと思う。写真を印刷やモニターで見るのと実物を見るのとは、まったくべつの経験である。妙な言い方だが、印刷やモニターで見る写真は有限なのだ。印刷というドットの集まりをいくら細かくしても、それは計量可能な有限の範囲を広げたにすぎない。一方で、オリジナル・プリントは見れば見るほど無限にむかって開かれているのを感じる。とくに小瀧さんの写真はそうだ。この世の時間から切り離された濃密な静謐を味わいたい方は、ぜひ足を運んでみてください。


小瀧達郎写真展(VISIONS OF UKーー英国に就いて)は神田ギャラリー・バウハウスで12月26日まで。


久々のテンポのいい更新ペースです♪ その勢いで「カッパの皿回し」もなんと半年ぶりに更新しました。今回は渾身の力をこめたレディー・ガガ(Lady Gaga)です。そちらもどーぞ。


| | コメント (0)

カミングアウト

最近は世の中もオープンになってきて、いろんな人たちがこれまで公にできなかった自分の秘密をカミングアウトできるようになってきたのは、いいことだと思う。人知れず秘密を抱えて、人前ではそれを知られないようにふるまうのは、なかなかつらいものがある。


じつは、ぼくにもそんな秘密がある。といっても、自分自身にとっては秘密でも何でもなく、気がついたらそうなっていたのだ。自分には自然なことなのだが、他人からするとかなり変わっているようなので、あえて口にすることはなかった。知っているのは家族だけである。だが、その家族の反応はというと、「信じられない」「かっこわるすぎる」「恥ずかしい」など、すこぶる評判が悪い。


どうして、そんな差別的ないわれ方をしなくてはならないのか。べつに恥じるようなことではない。法を侵しているわけでもない。たまたま、自分がそうだったというわけで、それで日陰者扱いされるのは不本意というものだ。人に迷惑をかけているわけでもないし、気づいたらそうなっていたのだから仕方ないではないか。


それでも、他人にそのことを知られたいかというと、やはり抵抗がある。いちどうちに来た友人がネット検索をしたいというので、うっかり何も考えずにぼくのパソコンを使わせた。ところが入力しようとした彼がモニターを見つめて「ありゃ、なんですか、これ!」とびっくりしたような声を上げた。その声ではっと気づいて、あわてて友人をどかして、いや、なんでもない、あれ、どうしたのかなとごまかした。危なかった。


でも、考えてみればべつにごまかさなくたってよかったのだ。これがありのままの自分なのだから。それに、ひょっとしたら自分のような人間はほかにもたくさんいるのかもしれない。世間の目が気になって公にできないだけかもしれない。そう家族に話すと、「ありえない」「そんな人、会ったことない」と言下に否定される。


ほんとうにそうなのか。たしかに、これまで会ったことはない。でも、おおっぴらには口にできないだけで、本当はけっこうたくさんいるのではないか。じつは、そうした仲間が集うマニアックな雑誌がひっそりと売られていて、こっそりと秘密の会合などが開かれているのではないか。
 

そう思ってネットで検索してみたが見あたらない。ミクシーでコミュニティを検索してみても、やはりない。よほど地下深くまで潜入しているのか、それともほんとうにいないのか。いや、いないはずはない。


そこでまず自分からカミングアウトすることにした。これ以上、隠していても(隠しているわけではないのだが)謎はとけそうもない。もし、自分のような人が思いのほかたくさんいることがわかれば、家族からのたびかさなる暴言も不当であったことがわかるし、負い目を感じることもない。なので、もしぼくと同じタイプだという人は恥ずかしがらずに教えていただきたい。


肝心のカミングアウトの内容だが、パソコンの入力で「ひらがな入力」を使っている、ということである。

 
つまり、キーボード上でローマ字を打って、それを日本語に変換しているのではなく、キーボード上に書いてある「ぬ」とか「ふ」とか「あ」という文字を直接打って入力している、ということである。


家族のいうように、ぼくもこれまで「ひらがな入力」で文章を書いているという人に直接会ったことがない。年をとってから初めてパソコンにふれた人には、そういう人もいるかもしれないが、若い人で最初からひらがな入力でという人は、どのくらいいるのだろう。

Rimg0003


自分の場合、英文タイプはやったことがあったが、初めてワープロ専用機を買ったとき、そこに書いてあったひらがなを見て、ローマ字入力よりも打つ回数が少なくてすむと思って、以来、ずーっと疑問を持つこともないまま、ひらがな入力だった。とくに不便を感じることもなかった。


ところが、パソコンが普及するようになってから事情が変わった。外国でネットカフェに入ってメールを打とうとすると、キーボードに「ひらがな」が書いていない!

  
それならローマ字入力で打てばいいのだが、もうずーっとひらがな入力しかやっていないものだから、打つのが極端に遅い。たまに英文を書くこともあるので打てないわけではないのだが、ローマ字入力で日本語を打とうとすると思考とタイピングのテンポがずれてしまって、時間はかかるし文体はおかしくなる。

 
しかもネットカフェにおいてあるのは、ウインドウズ・マシンである。パソコンはマックしか使ったことがないので、ウインドウズの使い方がわからないので操作にも苦労する。二重苦である。短いメール一通書くのにも人の倍以上時間がかかる。


そんなわけで、ひらがな入力が少数派であるのはおそらくまちがいないのだろうが、じつはけっこうマニアックに使っている人は多いのではないかと期待もしている。だって、やっぱり二文字打つより、一文字で打つ方が速いし、宇摩志阿斯詞備比古遲神とか高御産巣日神といった言葉をローマ字で打つなんてなんだかなあという気もしないだろうか。

 
みんな、ほんとうにローマ字入力なのだろうか。キーボードに書いてある、あのひらがなに誘惑されないなんて、そっちのほうが信じられないのだが。 「あの有名な作家のだれそれはひらがな入力だった」とか、そういうたのもしい情報などもご存じの方がいたら教えてください。


| | コメント (10)

エジプトの豚のこと その2

前回、エジプトの豚虐殺の話を書いたら、長年エジプトに住んでいる友人からメールをもらった。それについてコメント欄に書きだしたら長くなってしまったので続編ということで新たにエントリーを立てました。


エジプトの友人によれば、「(今回の措置は)全く偽善そのもの……他国に先立って衛生面から防御策をとっているとの恰好づけ」という。「コプトの大主教もこの処理案に賛成したそうです。政府は補償するといってますが、これもまずないのではないかと思います。会社の同僚(イスラム教徒)に今回の政府の方針についてきくと賛成との事。決して日常的に過激な言葉を口にする者たちではないのですが」とのこと。ほぼ思ったとおりだった。


ただ、意外だったのはエジプトのコプト大主教が、このたびの豚の処分に賛成しているらしいということだった。調べてみると、たしかにそのとおりだった。しかし、今回、いちばん打撃を受けるのはコプト教徒の豚生産者・処理業者などだ。彼らを保護する精神的支柱であるはずの大主教なのに腑に落ちない。しかも、その発言は、政府の方針に逆らってはいないものの、なんとも歯切れがわるい。


大主教は「エジプトのコプト教徒のほとんどは豚肉を食べない。エジプトの豚肉は非イスラム教徒の観光客によって食べられている」と述べ、さらに感染予防対策を優先する政府のやり方を認めるような発言をしている。でも、これは明らかにエジプト政府の顔色に気をつかっている弱気な発言だ。しかも事実ともちがう。「エジプトのコプト教徒のほとんどは豚肉を食べない」というのは正しくないし、今回の処置が感染予防対策などではないこともはっきりしている。国連のFAOをはじめ、感染症の専門家たちも感染の確認されていない国で豚を処分することがナンセンスであることは明言しているのだ。


にもかかわらず結局、処理は強行された。予想されたことだが、警察隊が装甲車で豚を飼育している地域に乗り込み、豚を飼育している人たちとの間で衝突が起こり、負傷者や逮捕者が出ている。このような事態を止められなかった大主教への失望を口にするコプト教徒も多いというが、そりゃそうだ。でも、そこまで大主教が政府に気をつかわなくてはならないのには理由がある。やはりコプト教徒の立場が弱いのだ、エジプトでは。

Pict0023

今回の事件には、やはりエジプトのイスラム化という背景があるのだと思う。長い歴史の中で見るとエジプトにはなんでも飲み込んでしまうような、ふところの広い寛容さがあった。しかし、それと逆行するようにエジプトのイスラム化が、近年じわじわと進んでいる。キリスト教徒やさまざまな移民を抱え込んだ国家主義的なアイデンティティは影をひそめ、むしろ汎イスラム主義とでもいうか、イスラム国家の道をめざしているような政治的動きが目立つ。要するに、国内のコプト教徒よりも、外国のイスラム教徒のほうを同胞と見るような感覚である。こうした極端なやり方が粛々と進められていくことは、とても怖い。それは南隣のスーダンで長年行われてきたイスラム化という名の下の民族浄化政策に重なるものがある。


現在も、エジプトのコプト教徒にはいろんな法的な制約がある。モスクを建てるのにはたいした許可が要らないが、新たに教会を建てようとすれば、膨大な手続きが必要になる。警察や役人、教育機関などでもコプト教徒が高い地位に就くのはむずかしい。コプトにとって社会的に不利な法的システムがまかりとおっているのが現実である。けれども、事実上の一党独裁の政府の下では、それに表立って逆らうことは、かえって自分の首を絞めることになる。今回の大主教の弱気発言も、そうした事情があるのだろう。


気の毒なのは、今回のあおりをいちばん食ったのが、エジプトのマイノリティであるコプト教徒の中でも、もっとも弱い立場にある人たちであったことだ。政府は補償をするといっているというが、その額は豚1頭につき1000ポンド(約2万円)という。しかし、実際にエジプトの事務処理の煩雑さや遅さを考えると、友人がいうようにきちんと支払われる可能性はとてもあやしい。それにたとえ一時的にわずかばかりの補償金をもらったからといって、生活の糧を失った彼らの先行きは暗い。それに豚の飼育者だけの問題ではなく、冷凍倉庫業者や運搬業者、販売業者など、その周辺の何万という人たちの生活だってかかっている。コプト教徒は豚を食うとか食わないという問題ではない。


| | コメント (3)

エジプトから豚が消える?

豚インフルエンザが世界中を不安に陥れているが、数日前の新聞にあったある記事に目を疑った。それはエジプト政府が、「豚インフルエンザ対策として、国内で飼育されている豚約35万頭の全頭処分を決めた」というものだ(朝日新聞09年4月30日)。となりのイスラエルで感染者が出たことを受けて、先手を打ったつもりなのだろう。しかし、これは、もし本当に実行されたとしたら、とんでもない暴挙である。


エジプトの人口の9割を占めるイスラム教徒にとって豚は不浄とされる動物であり、食用にされることはない。しかし、1割のキリスト教徒(コプト教徒)にとっては豚は、ウシやニワトリなどと同じく食肉である。そして、豚の飼育をなりわいとしているコプト教徒にとって、それは仕事を奪われることにほかならない。エジプト国内で感染が確認されたわけでもなく、豚から人よりも、むしろ人から人への感染こそが脅威だというのに、豚全頭処分はほとんど無意味である。


エジプトではさしあたっての脅威はむしろ鳥インフルエンザである。鳥インフルエンザへの感染例は60件以上あり、30人近くが亡くなっている。これほどの被害を出しながら、エジプト中のニワトリが処分されたという話は聞かない(感染源となった鶏舎の鳥は処分されたのかもしれないが)。そこには、豚を食べないイスラム教徒中心の政府の施策が露骨にあらわれている気がしてならない。


エジプトで豚の飼育に携わっているコプト教徒たちの多くはとても貧しい。彼らはカイロの街の東外れにあるモカッタムの丘の麓に暮らしている。そこはカイロ中のゴミを集めるゴミ収集業者たちが40年ほど前に強制移住されられた地区でもある。ぼくも訪ねたことがあるが、ところかまわず堆積するゴミにおおわれた壮絶な場所だ。生ゴミの発する熱のせいか、いたるところで噴煙が上がり、あたりは鼻の曲がりそうな強烈な刺激臭に満たされている。街にゴミが散乱しているというのではなく、ゴミの中に街があるといったほうがあたっている。

Z3

豚はこれらの生ゴミを餌として飼育されている。アパートの一階部分がゴミで覆われ、その中に何十頭もの豚がうごめいていたり、街のいたるところに仕切りが作られて、そこにおびただしい豚が飼われていたりする。高いところから見ると、豚はゴミの海の中で、長い胴をてらてらと黒光りさせたナメクジの群れのように見える。それはたしかに清潔とはいいがたい。けれども、地方から出てきた貧しいコプト教徒にとってゴミの収集と豚の飼育は、彼らのできる数少ない仕事なのである。


Z1


強制移住によってつくった地区にもかかわらず、政府はここを行政政策から切り捨ててきた。住民は長年、カイロのゴミ処理を一手に引き受けてきたにもかかわらず、最近では政府はゴミ収集を彼らの手から切り離し、民間のゴミ収集業者の手への移管する政策を進めている。要は、この不衛生なゲットーのような地区を一掃してしまいたいのである。


さらに住民に追い打ちをかけるように、たびたびモカッタムの丘から巨大な岩が崩落して人びとが犠牲になる事件が起きている。そこに来て、今回の豚の全頭処分のニュースである。イスラム教徒の豚への嫌悪感からパニックが起きることを怖れてというが、本音はこの不衛生な地区と住民と豚を一掃してしまうために、今回の豚インフルエンザ騒動は好都合と考えられたのだろう。しかも、国際社会に対しては、豚インフルエンザに対して迅速な対策をとる有能な政府というイメージを植え付けられるとでも思ったのかもしれない。

 
しかし、見かけの凄絶さにくらべて、この地区の雰囲気はけっして悪くない。人びとはやさしいし、コミュニティのつながりや同胞意識も強いし、治安もけっして悪くない。豚を全頭殺すということは、豚の飼育を生業として、ぎりぎりの生活を送っている何万人ものコプトの人びとの生活を殺すことである。それも、ほとんどなんの根拠もなしにだ。そのほうが、よほど将来的な社会不安をあおる結果になると思うのだが。愚かとしかいいようがない。

| | コメント (2)

桜の花咲いて、野町さんの写真を見る

例によって更新期間が空いてしまい、月刊ブログになりかけていた。ときおりページをのぞいてくださっていた方、すみませんでした。ブログというのは結論がなくても、断片的なことを書くだけでもいいとはわかっているのだけれど、性分なのかなかなか割り切れない。自分の中で書けないことや、書きにくいこと、書く気になれないことなどもあるし、みなどうしているのだろう。そうこうしているうちに桜も咲いた。

 

ともあれ気分一新して春の再開である。カッパの皿回しのほうも更新した。今後はともにこまめな更新を、といっても、だれにも信じてもらえないだろうな。また罰金制を復活させようかな。うーむ。

 

Rimg0004


さて今回も写真の話。ただし横谷さんではなく、いま恵比寿の東京都写真美術館で開催されている野町和嘉さんの写真展のことだ。

 

知っている方も多いだろうが、野町さんは1970年代にサハラを撮影され、その後ナイルの奥地やチベット、インドなど世界の辺境とよばれる地域を地を這うように撮影してきた方だ。一方で、メッカやバチカン、エチオピアの教会のような祈りの現場に肉薄した作品でも知られる。今回の写真展は「聖地巡礼」というタイトルで、これまでに訪れた場所のなかで宗教や祈りに結びついた作品が選ばれている。

 

これまで野町さんの写真展にはなんども足を運んできたけれど、今回の写真展はその中でも、とりわけよかった。メッカやチベットといった地域をテーマとするのではなく、聖地や祈りというテーマこそが、彼の写真を貫いているものであることが、とてもよく伝わってくるからだ。とくに今回ぼくは初めて目にしたのだけれど、インドの写真が圧巻だった。

 

ちなみに、ぼくがアフリカに行くきっかけになったのも野町さんの写真だった。それはスーダン南部のディンカという牧畜民を写した一連の写真だった。明け方の青ざめた光の中にシルエットとなって浮かぶ彼らの姿が、なにか、この世のものとは思えないほど神々しく思われた。こういう人たちが同時代に地球のほぼ反対側で、いまもこうして暮らしている、というその事実に衝撃をおぼえた。

 

たとえ一時的に衝撃は受けても、時がたてば自分の日常とはかけはなれたリアリティは薄れていくものだ。けれども、野町さんの写真で見たディンカは、日がたっても目に映る日常のほうがかき消えてしまうほど圧倒的な存在感に満ちあふれていた。写真に映し出された現実にくらべれば、自分の生きているこの日常はなんとふにゃふにゃしたものなのだろう。若かったぼくには、そんなふうに思えてならず、それから2年後、スーダンをめざした。

 

もっとも、ぼくが彼の地にたどりついたときには、すでにディンカの暮らしているエリアは内戦下にあり、とても訪れることのできる状況にはなかった。野町さんが写真に収めたのは、スーダン南部が幸福だった最後の時代だったのかもしれなかった。

 

いま、あれから25年くらいたって、あらためて野町さんが1970年代、80年代に撮影したサハラやスーダン、エチオピアなどの写真を見ると、時代が変わったなあという思いがこみ上げてくる。いや、時代が変わったというより、自分も含めて、それを見るわれわれの眼差しが変わったということかもしれない。

 

当時、野町さんの写真に魅せられた人は多い。ぼくもそうだが、地球上には、こんなにもざらついた存在感のある激しい世界が存在するのだ、ということに衝撃を受けて、旅に出た人も少なくないだろう。けれども、いま若い人たちは、この写真をどんなふうに見るのだろう。

 

野町さんの写真はけっして外地の情報を伝えるものではない。むしろ、そこから伝わってくるのは、ざらざらした「生」の手ざわりのようなものであって、インドに行ったから、エチオピアに行ったからといってそれだけで出会えるようなものではない。野町さんの撮影した地域の情報なら、いまならネットでいくらでも手に入るかもしれないが、彼の写真にしかない生々しい触感は、やはりそれだけではけっして見えるものではないのだ。しかし、あふれんばかりの情報の中で、野町さんの写真といえども、情報の一つとしてとらえられてしまうとするならば複雑な気分だ。

 

また、スーダンもそうだったように、野町さんが撮影したサハラは、いまのサハラではない。少なくとも、治安面とか、情報面では大きく変わった。オープニング・パーティーの会場で、一時期カイロに暮らしていて、いまもサハラの写真を撮りつづけている知人のカメラマンの大塚雅貴さんに会った。大塚さんによると、この数年、日本ではまったく報道されていないが、ニジェールの治安が悪化してアルカイダが入ってきて外国人の拉致などをくりかえしているという。

 

大塚さんはいう。「もう昔のサハラじゃないんですよ。すっかり危なくなってしまった。それにいたずらにネットで現地の情報が手に入ってしまうのも困りものなんです。実際は行けば何とかなるのかもしれないけれど、情報があると、かえっていろいろ想像してしまって行けなくなってしまうんです」

 

会場には戦場カメラマンの村田信一さんもいた。このときだったか、その前に会ったときだったかおぼろげだが、村田さんは、雑誌メディアでは戦場取材や戦場の写真などへの需要が以前に比べてがくんと減ったと話していた。情報はいくらでも手に入るが、一つひとつの情報のもつ重みはどんどん軽くなり、かぎりなく背景へと遠ざかってしまったような気がする。死体の写真なんて、その気になればネットでいくらでも見られるし、パレスチナもダルフールもチェチェンも、よく区別がつかないし、自分たちとはとりあえず関係ないし、というのが一般的な感覚だろう。それがよくないというのではなく、そういう感性の閉塞感におおわれた時代なのだ。

 

今回の写真展の図録にノンフィクション作家の最相葉月さんが、こんなことを書かれていて、読みながら思わず「そうだよなあ、そうなんだよ」と頷いてしまった。「……近頃、野町さんのように辺境を旅する若い写真家は少なくなった。グラフ誌の相次ぐ廃刊で写真家を支えるメディアがないことも大きな理由だろうが、それだけでもないようだ。グーグルで検索すれば、サハラもインドもチベットも、ヴァーチャルに旅行できる。もう全部見ちゃった、もはやこの世に辺境はない、という錯覚の中で私たちは生きている。乾いた砂漠に吹きすさぶ熱風も知らなければ、ヌバ族の体臭も、ガンジスの火葬場から漂う死体の焦げる臭いも嗅いだことはないというのに……」

   

 
野町和嘉写真展「聖地巡礼」
■会 期:2009年3月28日(土)→5月17日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:東京都写真美術館 地下1階展示室
■料 金:一般 800円/学生 700円/中高生・65歳以上 600円
 
 
 

   

 

| | コメント (0)

横谷宣展満了御礼+オンム・セティ「ふしぎ発見」登場!

今回は話題が二つです。
 

まず、本ブログでもお伝えしてきた横谷宣写真展「黙想録」が、2月28日、ぶじ満了いたしました。最終日の夕方に行ったのですが、切れ目なく人が入っていました。口コミなどで情報が広がったようで、来場者数の多さもギャラリー始まって以来だったようです。

 
正直、これほどの反響があるとは、ぼくも、ギャラリーの方も、飯沢耕太郎さんも、もちろん横谷さん本人もまったく予想していませんでした。紹介者として、とてもうれしく思います。ギャラリーに足を運んでくださった方、作品を買ってくださった方、感想やアドバイスを下さった方、ほんとうに、ありがとうございました。


未発表の作品も、どうもまだあるようなので、できれば来年、また展覧会を開催できればと思います。写真集がほしいというご意見もかなりいただきました。いまの時代、なかなかむずかしいとは思いますが、可能性をさぐっていきたいと思います。ミクシー(じゃなくてミクスィー)に横谷宣コミュニティをつくったので、新しい情報などは、そちらのほうで折にふれてあげていきたいと思いますので、ご興味のある方はのぞいてみてください。

Pict0016
2/28のギャラリー地下

 


ところで、話はがらりと変わります。こんどの土曜日夜(3月7日)の「世界ふしぎ発見」(TBS夜9時)という番組に、このブログでもなんどか紹介したオンム・セティが取り上げられます。

 
現在のエジプト考古学界のトップ、ザヒ・ハワス博士も一目置いていたエジプト考古学者オンム・セティは、みずからを古代エジプトの巫女の生まれ変わりと信じていた変わり者でしたが、この数年、彼女が30年前に予言していた場所から、実際に重要な墓の手がかりが見つかっています。そのことをテーマにした番組です。

Photo_2
アビドスのオンム・セティ photo: Maurine Tracey
 

オンム・セティの生涯については『転生』(新潮社)と『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)にくわしいですが、映像で観る機会ができてうれしく思います。オンム・セティの親友として彼女をサポートしつづけたエジプト人、ハニー・エル・ゼイニさん(90歳)のインタビューが見られるだけでも、ぼくには感動的でした。ザヒ・ハワス博士、吉村作治さんも登場。本を読まれた方も、そうでない方も、ぜひ見てみてください。いわゆるスピリチュアル系の話とは、まったく対照的な話だということがわかっていただけると思います。
 

なお、文筆家の大竹昭子さんが、昨年翻訳した『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)のブックレビューを書いてくださいました。


観客にまじって収録にも立ち会いました。小林麻耶アナウンサーがかわいかった。。。


 


| | コメント (10)

横谷 宣と語る会 報告

一カ月ぶりの更新です。どんなに忙しそうでも、毎日更新している人とかいるので面目ありませぬ。今朝なにを食べたとか、なにを読んだとかくらいなら書けるとしても、それだけというのもなんだし、やはり日記といっても浅漬け程度には漬け込まないとなあと思うのですが、そうすると気がつくと浅漬けどころか古漬けになってカビが生えて食べられなくなってしまうので、そのあたりの塩梅がむずかしいですね。

 

今回も横谷さんネタです。ミクシー(ではなくてミクスィーでしたね)の横谷宣コミュニティも50名くらいの方が入ってくださってありがとうございます。ぼくのところにも、いろんな感想が寄せられ、とてもうれしく思います。横のバーにも書きましたが、作家の宮内勝典さんも来てくださって、ブログに感想を書いてくださいました。宮内さんは、コネとか友だちだからとかヌルい理由で、なにかを持ち上げるような方ではないので、これはとてもうれしかった。

 

さて、2月14日にギャラリー・バウハウスで、前回のトークイベントに来られなかった方のご要望に応えて2度目のトークイベントがありました。今回はこぢんまりとしたお話し会のつもりでしたが、ふたを開けたら前回同様50人以上の参加者があり、立ち見も出ました。

 

で、来られなかった方のために、遅ればせながらトークイベントの抄録です。前回もとてもいい感じだったのですが、今回もとてもいい雰囲気でした。会場からもいろんな質問が出ました。話をざっくりまとめたものを以下に掲載します。前回の話と重複するところは省略しました。

B0011771_1542529_2


写真は小瀧達郎氏のブログより

その前に、ちょっとだけ。会場でも述べたのですが、横谷さんの写真はけっしてだれにでも受け入れられるようなものではないかもしれません。けれども、彼の写真に深く心を動かされる人は、少なくともこの世界に何千人か、あるいは何万人かはかならずいると思います。

 

今回、思いがけず、ほんとうにいろんな方が来ていただけて、その思いがまちがいでなかったと確信しています。ギャラリーの方の話では、賞もとっていない無名の新人の写真展に、これだけの人が来て、これだけ写真が売れたのは、相当異例なことだそうです。わざわざ関西や北陸から来てくださった方もいらっしゃいました。展覧会も2月いっぱいまでです。もし、未見の方はぜひ足を運んでくださればと思います。



−−
Yokotani Sen Talk 2



子どものころ


子どものときの記憶はあまりないんです。私は成長が遅いというか、精神的に奥手だったのか、小学6年生まで友だちが一人もいませんでした。兄がいたので、兄が友だちと遊んでいるのに、いっしょについていって遊ぶくらいで、近所の人とも学校の友だちともほとんど遊べなかった。あいさつもできなければ、ありがとうということもできなかった。だから、よくいじめられました。


兄が中学に上がった頃から、突然私を殴るようになりました。中学が暴力で悪名高い学校だったので、きっと兄もだれかに殴られて、人は殴るものなんだと思ったのかもしれません。私も中学に上がると、毎日、学校で殴られていました。あいさつもしないし、しゃべりもしないのに、態度だけはふてぶてかったので、生意気に見られていたのでしょう。あまり写真とは関係ないですが。


小学校のときから歩くのが好きでした。高校では友だちとわいわいやっていたのですが、ふと一人になって考えたりする。寝袋だけもって一人で歩いていると、自分のことや、友だちのことなどを考えたりしている。それが面白くて、寝袋だけもって思いつくと夜中でも歩いていました。大学に入ったのは、共通一次がはじまった最初の年でした。世間的にも、いい大学に入って、いい会社に入ってということをいわれつづけていた時代です。私は中学のときからサラリーマンにはなりたくない、職人になりたいと思っていたのですが、親は許しませんでした。


大学に行くなら写真をやりたいと思っていたのですが、これも親が許さないのでしかたなく建築学科に入りました。それまで職業というのは、いろいろやっていれば、そのうちに自分にはこれしかないというものが天から降ってくるように決まるのかなと思っていたのですが、大学3年のとき、そんなものは降ってこないことに気づきました。職業は自分で選ばなきゃいけない。そこで、自分がなりたくないもの、できないものを消去法で消していくと、結局カメラマンしかない。食えないかもしれないけれど、とりあえずつづけようと思いました。職業の選択については、以来、食えなくなっても一回も悩んだことはありません。


大学を中退してスタジオに入って、毎日カメラをいじっているうちに、仕事で撮る写真のほかに、自分の中に出したいものがあり、それをどういうふうに表現すればいいかばかり考えていました。表現したいイメージがどこから来るのかはわかりません。食欲とか性欲のように体の中に出し切れずにある、もやもやしたもの。その表現方法について考えるうちに、自然とレンズの改造をしていました。


モヤッとではなく、グニャッと

 
ふつうのレンズで写真を撮って現像するというのは、売っているテレビを買って、与えられたコンテンツを見るのに似ているかもしれません。カメラの性能や写り方というのは、メーカーが考えるわけです。その性能を最大に引き出すような現像法があり、それにしたがって写真をつくりあげる。けれども、私は家具職人が、一つひとつちがう家具をつくるように、一つ一つの写真を一からつくっていきたかった。


レンズをつくるというと、特殊なことのように思われがちなのですが、レンズをのこぎりで切って玉を取り出すのは、スタジオマンならよくやっていたことなので、自分にはふつうの感覚でした。そうやって最初に8×10のカメラに改造したレンズをつけて撮影したところ、思いのほか、うまくいきました。それで一眼レフでも同じことをしてみようと思いました。


レンズの改造はやり方が決まっているわけではないので、くりかえしながら、ちょっとずついろんな工夫をしていく。すると、うまくいきすぎて、売っているのと変わらない解像度のいいレンズができてしまったりする(笑)。市販されているレンズにもソフトフォーカスレンズというのがありますけれど、あれはフレアが出るような、もやっとした感じで、それは好きではなかったんです。もやっとしているんだけど、フレアは出ないようにして、コントラストは合っていて、線は力強く、ぐいぐいと来るものがほしかった。


印象派の画家などにとっては自分の色調やタッチこそがだいじなのであって、描いているものはあまり関係がない。それと同じように、自分の色調とタッチを表現するためのレンズと現像法がほしい。写真の色調やコントラストはフィルム現像でほとんど決まるので、レンズに合わせて現像液を変えて、全体として、モヤッとしたのを抑える現像方法をつくっていく。レンズ自体もモヤッとせずにグニャッとした感じにする。やってみないとわからないので、とにかくいろいろ実験しました。


ルイ・ヴィトンに並ぶ


撮影の仕事でロンドンに二ヶ月いたことがあり、そのあと一人でなんとなくフランス、スペイン、モロッコのサハラ砂漠の端の村まで行ったことは前回お話ししました。そのあといろいろ旅行して日本でまた仕事をしていたのですが、あるとき東京で撮影の仕事の後、みなで集まっていたときに、そこにパリで発行されている日本語新聞が置いてありました。なにげなくそれを見ていたら、パリの貸部屋情報が出ていた。その場にいたスタッフが、だれそれさんもパリに行ったんだよね、という話をしたとき、私も発作的に「私もパリに行きます」といってしまって、それからまもなくして部屋をたたんで、本当にパリに行きました。


パリには部屋を借りて3年くらいいました。お金はなかったのですが、ひょんなことからアルバイトの口を見つけました。その頃はバブルの影響で、日本人がパリのルイ・ヴィトンの店に行列しているという報道がされていた頃でした。けれども、あれはじつはうそなんです。どうして、そんなことを知っているかというと、私もそこに並んでいた一人だったからです。


ヴィトンは並行輸入で高く売れるので、パリ在住の輸入業者の元締めが、アルバイトを集めて、彼らにお金を渡して、商品を買い占めさせていたのです。私のほかは、ほとんどがベトナム系の移民でした。私たちは毎日元締めから一人日本円で50万円くらいずつ渡され、朝一番に店に並んで全額ヴィトン製品を買います。すると、その5パーセントが報酬になるという仕組みでした。そんなことをしてお金をつくっては、旅行に出かけてました。


私が行くところは基本的に安いところなので、お金はあまりかかりません。移動はローカルバスかヒッチハイクです。泊まるのも野宿か、人の家に泊めてもらうことも多いです。私はバスが好きなんです。列車は泥棒が多いし、走るのも町外れですが、バスは泥棒はあまりいないし、村から村へとめぐるので、休憩のとき食堂に入ったり、物売りが来たりするのも楽しい。好きなところで降りて、野宿することもできる。写真を撮りたいときに、ちょっと停まってもらうこともできる。


旅行をしていてると日本の価値観が世界では通用しないことがわかってくる。それが私には面白かった。だから、その後、日本に帰って人になにをいわれても、気にならなくなりました。あともう一つ、わかったことがありました。私は旅に出る前、世界のどこかには自分にとってのユートピアみたいなものがあるんじゃないかと思っていました。でも、最初はいいなあと思っても、長くいると飽きてきたり、悪いところが見えてきたりする。そうやってあちこち行くうちに、結局どこもいっしょだということもわかってきた。金持ちの国がいいとか、人権が守られている国がいいといった一つの物差しを当てなければ、どこの国もバランスがちがうだけで。それほど変わらない。総合的に点数をつけると、どの国も同じくらいだと思います。その意味では、日本も悪くないと思うようになりました。


印象深いのは国ではなくて、そこでたまたま起こったことが心に残ったかどうかということだと思います。会った人とか出くわした事件がたまたま印象深いものなら、それが心に残る。あるいはそこで見た光がきれいだったとか、そういうことが旅の印象を決める。もし、お金をたくさんもらって好きなところへ行っていいといわれても、どこへ行きたいというのはあまりない。とりあえず、バンコクでもカイロでもいい、そういう旅行者が集まるところで話を聞いて、それから決めたい。


どろっと、ぐわっと


それでもどこへ行きたいかと言われれば、夕方の光のきれいなところ、きれいな光のありそうな場所に行きたいということになります。でも、そういう場所との出会いは偶然です。どこに行けば、なにがあるというものではない。どこで撮ったとか、なにを撮ったというより、できあがった作品を見てみると、自分がいいと思うものには、なにか共通するつながりがある。それはうまく言葉にはできない。どろっとしたものというか、ぐわっとしたものというか、そういう光と空気の感じとしかいいようがありません。

でも、そうやってできた写真を、いろんな人に見てもらうと「こんなのピントが合っていないから使えない」といわれてしまう。だったら、ふつうの写真も撮らなくてはと思うのですが、自作のレンズで撮った写真でいいものが撮れると、ふつうのレンズで撮った写真では不感症になったように、どきどきしないんです。自分はこれでしか感じない、でも、それでは仕事にならない。そこでまたふつうのレンズを試してみる。そのくりかえしでした。


プリントに半年かかるというのも、特殊なことのように思われていますが、そんなことはないんです。印画紙が完全に乾いて黒がしまるまでには時間がかかるのは写真家の間ではわりと常識的なので、どこまで待つかは別にして、黒がしまるのを計算に入れて少なめに露光するといった工夫は、みな行っていることです。ただ、私の使っている印画紙はその性質上、乾くのに時間がかかり、黒のしまり方がかなり変わってくるというのはあります。また、トーニング法であるカルバミド調色も、いまやっている人は少ないですけれど昔からある方法の一つであって、けっして特殊なやり方というわけではない。


ものを作る人はだれでも、そうだと思いますが、なにか伝えたいものがあるのだと思います。けれども、実際に作るときは、これを伝えたいというのがはっきりあるわけではない。全部でなにを伝えたいかということより、「ああ、これきれいだな」と思って見てもらえればいいと思います。私の中では、つねになにがいいものなのか揺れ動いています。初めは、ぬめっとした感じがいいと思っていたが、そのうちに、それに飽きて、もっとガリッとした感じを出したくなって、またレンズをつくり、現像法を変えてみて、それでアンコールワットの写真でガリガリッとした感じが理想として出てきた。でも、そうすると前にあった重みがなくなってしまった気がして、また戻そうかと思っている。それが私には楽しいんです。


横谷宣と語る会(聞き手:田中真知)
2009.2.14 ギャラリー・バウハウスにて

 

 

 

| | コメント (2)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

CD | かっぱくんとあひるさん | 旅行 | 旧館2002 | | 楽器 | 雑記 | | 音楽